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奏鳴曲 5 side奏多

「じゃあ、またな。たまには、帰ってこいよ」 「奏多くんも、またね」 「あ、はい。お気をつけて」 笑顔で手を振ってくれた真白さんに頭を下げると、弟くんはじろりと冷たい目で俺を一瞥して。 急発進で車を出して、あっという間に遠ざかっていった。 なんだ、ありゃ… 車が見えなくなると、どっと疲れを感じて。 知らない間に、弟くんの強烈なプレッシャーに負けじと身体中に力が入りまくってたことに気付く。 「…疲れた…」 「…ごめん」 思わず呟いてしまったら、凪が小さな声で謝った。 「いや、凪が謝ることじゃないけど…」 凪は結局ずっと下を向いたまま、弟くんの顔を見ることはなくて。 …嫌い、なのかな…? いや、違うな… 喧嘩とか…? うーん… そんな感じでもないような……? ぽつんと、世界にたった一人取り残されてしまったようなその姿に、どう声をかけていいかわからなくて。 「えっと…」 今は一人にしたほうがいいのか、それとも側にいたほうがいいのかも、わからなくて。 困りきって、俺もその場に立ち尽くしていたら。 「…奏多、ちょっと家、上がってかない?」 ようやく顔を上げた凪が、小さな声でそう言った。 「いいのか?」 「もちろん」 「じゃあ、少しだけ」 戸惑いなく頷いてくれたことに、ホッとして。 一緒に凪の部屋へと向かう。 「コーヒー、飲む?」 部屋の真ん中に置かれた小さなローテーブルの前に座ると、凪の声がキッチンから飛んできた。 「え?コーヒーあるの?」 「奏多にバカにされたから、この間いろいろ買ってみた」 「いや、バカにはしてないけど…」 言ってる間に、コーヒーのいい香りが漂ってきて。 凪がクスクスと笑いながら、マグカップを2つ持ってくる。 この間来た時には見なかった、カップを。 「ミルクと砂糖、いる?」 「いや、ブラックでいい」 「だよね。奏多って、ブラックって感じ」 「そういうおまえのは、なんかコーヒー牛乳みたいだな…」 コトリとテーブルに置かれたカップの中身の色があまりにも違いすぎて、つい素直にそう言ってしまうと、凪は笑いながら肩を竦めた。 「だって、コーヒー苦いんだもん。あんま、好きじゃないし」 「だったら、なんで買ったんだよ」 「これは、奏多が来た時用」 さらりと告げられた言葉に、不覚にもドキンと心臓が震える。 「あ、ありがと…」 これからもこの家に上がる許可をもらったみたいで、嬉しくて。 でも、それを素直に表すのもなんか出来なくて。 変に引き攣った顔になったであろう俺を見て、また凪が笑った。 「…なんだよ」 「なんでもないよ」 さっきまでとは全く違う凪の柔らかな雰囲気に、俺は心の中でそっと息を吐く。 良かった… いつもの凪に戻ったみたいだ 「…さっきは、ありがと。助かった」 ホッとしながらコーヒーに口をつけると、凪がボソリと呟いた。 「ああ…うん」 聞いていいものか、一瞬迷ったけど。 「あのさ…お母さんの命日って…あの日だよな…?」 教授に無理やり薬を飲まされて ヒートを起こした次の日 あの 聞いてるだけの俺まで胸が苦しくなるような モーツァルトのレクイエムを弾いていたあの日 「…うん」 思い切って聞いてみると、凪は素直に頷いて。 両手でカップを持ち上げて、中でゆらゆらと揺れるコーヒーを無言で見つめる。 その姿はまるで、亡くなったお母さんとの遠い記憶を思い出してるように見えて。 俺は言葉をかけることも出来ず、ただ隣に寄り添ってひたすらにコーヒーを啜っていた。

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