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奏鳴曲 7 side凪

「ねぇ、お店のピアノ、弾いていい?」 ケーキを2つ平らげ、紅茶を飲み干して。 ようやく落ち着いた気持ちで訊ねると、那智さんは戸惑いなく頷いてくれた。 「ああ。あれは、おまえのもんだからな。好きにすればいい」 「ありがと」 「じゃあ行くか?今ならまだ、誰もいないしな」 「うん」 那智さんに続き、立ち上がると。 「凪、今日は泊まっていくだろ?」 誉先生が慌てて駆け寄ってくる。 「あ、えっと…」 そこまで考えてなくて、言い淀むと。 「泊まっていかないと、誉が泣くぞ?」 那智さんが誂うような笑いを浮かべた。 「え、でも…」 「着替えなら、まだ置いてあるよ!凪の部屋もそのままにしてあるし!今日は診療所早めに閉めて、凪の好きな唐揚げ作るから!」 先生にグイグイ迫られて。 「あ、うん…わかっ、た…」 押し切られるように、首を縦に振る。 「よし!じゃあ午後の診察、頑張ってくるよ!気を付けて行ってきてね!」 誉先生は、まるでスキップでもするように軽やかな足取りで、診療所へ戻っていって。 その背中を見届けて、俺と那智さんは家を出た。 「くくっ…さっきの誉、面白かったなぁ」 店へ向かう車の中。 那智さんがハンドルを握りながら、楽しげに笑い声を立てる。 「…泊まってくつもり、なかったのに」 「あいつにとっておまえは、目に入れても痛くない可愛い可愛い孫みたいなもんだ。たまには我儘聞いてやってくれ」 那智さんにそう言われると、断るなんて出来るわけなかった。 「…うん」 「それで、時々でいいから顔を見せに来い。じゃないと、誉が心配して早く老けちまうぞ」 そう言う那智さんの目元も、知らない間に小皺が増えてて。 真っ黒だった髪にも、ちらほらと白いものが混ざっている。 なんとなくそれを見たくなくて、車窓へと視線を移すと、流れていく景色はあの頃と変わらなくて。  でもよく目を凝らすと、お店が変わってたり、ビルがなくなっていたりして。 この世界に変わらないものなんて、なくて。 全ては変わっていく 誰も同じ場所に留まることなんて出来ないのに 俺はまだ動けない だってまだ探してしまうんだ すれ違う人の波の中に あなたの香りを探してしまう もうあなたはどこにもいないのに どうやったら忘れられるの? 誰か教えてほしい あなたの最後の願いの通りに生きたいのに 気が付けばあなたのことを考えて あなたの面影を追ってしまう自分が大嫌い もうここに留まりたくなんてないのに…… 「…苦しいよ…」 思わず、口から零れると。 車が赤信号で静かに止まって。 那智さんの大きくてゴツい手が、そっと俺の頭を撫でる。 その温かさに、堪えることが出来なかった涙が一粒、零れ落ちた。

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