46 / 57

奏鳴曲 8 side凪

重厚なドアを開くと、懐かしい景色が広がっていた。 豪華なシャンデリア。 等間隔で並ぶ、見るからに高級そうなソファにテーブル。 様々なお酒が並んだバーカウンター。 そして。 中央に置かれた、磨き上げられたグランドピアノ。 見たことはないのに、そこに座るママの幻が見えて。 思わず、息を止めた。 『凪…』 ママの声が耳の奥で聞こえて。 導かれるように、一歩一歩踏みしめながらピアノへと近付く。 蓋を開け、人差し指で鍵盤を弾くと、音は寸分の狂いもなくきちんと調律されていた。 「…俺は、下の事務所にいるから。ゆっくり、楓と話でもしとけ」 那智さんが、その大きな手で子どもにするみたいに俺の頭をぽんぽんと軽く叩いて、フロアを出ていく。 椅子に座り、鍵盤に両手を置くと、ふわりと周りの空気が動いた気がした。 「…ママ…」 ここに、いるの…? 指が、勝手に動いて。 無意識に弾き始めたのは、ショパンのノクターン。 ママからもらった なによりも大切な曲 だけど。 「…なんで…」 半分ほど弾いたところで、指が止まった。 楽譜は頭に完璧に入ってる。 ママの音だって完璧に覚えてる。 でも、指が動かない。 …ママが消えた、あの日から。 「…なんでっ…」 ママの音を受け継ぐのは、俺しかいないのにっ… 『俺は父さんのコピー人形なんかじゃなくて、俺自身として生きていきたい』 頭の片隅で、いつかの奏多の声が響く。 コピー人形だっていい だけど 俺はコピー人形にすらなれない だったら俺は なんのために生きてるの…? 「…ママ…」 呼んでも、もう空気が揺らぐことはなくて。 怒ってるの…? 失望した…? ママのところへ行けなかった俺を パパと櫂のところから逃げ出した俺を ママの音を失ってしまった俺を 最期の時にママの手を取れなかった俺を…… 涙が、勝手に溢れる。 それを拭うことも出来ずに、ピアノを離れ。 ふらふらと、フロアの一番奥にあるソファへと向かった。 那智さんに教えてもらった この店で働いていた頃 ママがいつも座っていた場所 「…ママ…」 その上に寝転び、ママの香りを嗅ごうとしても。 もうそこには残り香すらもないけれど。 「…会いたいよ…」 凍えそうな心を抱いて。 俺は目を閉じ、ママの面影を瞼の裏に映した。

ともだちにシェアしよう!