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奏鳴曲 15 side凪(過去編)

ママが死んだのは その2日後だった その日のことはよく覚えていない ただモノクロの写真のような断片的な記憶のなかで まるで僕が握るのを待ってるかのように投げ出されたママの細い手を 部屋の隅で蹲ったまま見つめていたことだけが 頭の片隅にこびりついている 「凪、本当に行かないのか…?」 お葬式が終わり。 焼き場へと向かう車に乗ることを、僕は拒否した。 「うん」 「これで二度と、ママの顔見れなくなるんだぞ!?」 「うん、行かない」 苛立ちを顔いっぱいに表した櫂から、目を背ける。 「凪っ!」 「櫂、今は凪の好きにさせとけ」 僕に向かって足を踏み出した櫂を、那智さんが身体を張って止めた。 ママが骨だけになるとこなんて 見たくもない 「凪、タクシー用意したから。先に帰ってな?ね?」 春くんが、僕の背中にそっと手を当てながら、そう言ってくれて。 僕は俯いたまま、誰の顔も見ずに、タクシーに乗ってあの小さな家に戻った。 ママがいたベッドは、綺麗にベッドメイクされていて。 昨日までママがそこにいたことが、嘘みたいで。 ママが死んだことも 嘘だったらいいのに… 「っ…うぅぅっ…」 ベッドに顔を埋めると、微かにママの匂いがして。 僕は声を上げて、泣いた。 ママ… ごめんなさい… 僕が生まれてきて ごめんなさい……… 「…凪…」 その時。 一番聞きたくて。 でも一番聞きたくない声が、僕を呼んだ。 「凪…」 頭に触れる、大きな温かい手。 「…なにしに、きたの…」 なんで、ここにいるの? あなたがいたいのは、ママの側でしょ…? 「凪が、心配だったから…」 嘘っ… ずっとママが好きだったくせにっ… 僕のことなんて ママの子どもだってくらいにしか思ってないくせにっ… 「そんなことはないよ。僕は、凪のことをとても大切に思ってるよ」 頭を撫でてた手が、そっと僕を抱きしめる。 その瞬間。 ドクンっと、身体の奥底でなにかが弾けた。 えっ…… そうして、次々と湧き上がる、熱。 まさか… ヒート!? 今までこなかったのに なんでこんな時なのっ…!? 振り向くと、伊織が驚いたように目を大きく見開いていて。 「凪…まさか、ヒートか…?」 その目が、なんで楓が死んだ今なんだと、僕を責めているようで。 「いやっ…!」 僕は、身を捩って伊織の大きな腕から逃げ出した。 だけど。 「凪っ…」 僕のフェロモンに呼応するように、彼の身体からフェロモンが溢れ出す。 甘くて、それでいて爽やかな 伊織自身みたいな香り 「…いや…いやだ…」 僕は ずっとずっと伊織が好きだった 僕よりずっとずっと年上だけど 伊織がママのことしか見てないのは知ってたけど それでも僕は伊織が好きだった でもっ…… 「凪っ…」 堪らない、とでも言うみたいに、伊織の腕が僕を抱き締めて。 そのことに、身体が歓喜の声を上げる。 心を置き去りにして 「凪…凪っ…」 伊織の甘い声が僕の名前を呼ぶたび、喜びで身体が震えて。 心が、暗く沈んでいく。 なんで… なんでなの… 僕がΩだから…? だったら こんなからだ 僕はいらない 「…死にたい…」 僕もママのところに行きたい Ωである自分なんて 消してしまいたい 僕は 僕を許せない、のに… 「駄目だ。僕が、死なせない」 伊織の声が、頭の中で反響する。 知らない熱が、絶え間なく体の奥から溢れてきて。 その熱で、頭の芯が痺れたように動かなくなってきて。 なにも考えられなくなる…… 「…きらい…」 僕は 僕が… 「僕は、好きだよ」 息もできないような、濃厚な伊織の香りに包まれて。 目を閉じると、涙が溢れて。 初めて触れた愛しい人の唇は 燃えるように熱かった

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