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奏鳴曲 16 side凪
「凪、起きろ」
肩を叩かれて、目が覚めた。
目の前には、困った顔の那智さんが立ってる。
「あ…ごめん」
慌てて身体を起こすと、目から涙がぼろりと零れ落ちた。
「…ほら」
用意していたのか、那智さんがタオルを差し出してくれたから。
「ありがと…」
俺はそれを受け取り、ゴシゴシと少し乱暴に顔を拭く。
嫌な夢…
もう二度と思い出したくなんてないのに…
「悪いな。もう少し寝かせててやりたかったんだが…そろそろ、みんな出勤してくる時間だから…」
そう言われてスマホを確認すると、時計は16:25と表示してて。
その下の通知のところに、奏多からの不在着信の文字があった。
とくん、と。
心臓が小さな音を立てる。
「ごめん。帰るね」
立ち上がると、押し留めるように那智さんが俺の肩を掴んだ。
「ピアノ、弾いてってもいいんだぞ?前みたいに…。おまえのこと知ってる奴だって、まだ何人も残ってるし」
その言葉に、2年前のことを思い出す。
全てに絶望して
自分が生きているのか死んでいるのかすらわからなくなっていた
あの頃
このピアノだけが
俺の全てだった
かつてママが弾いていた、このピアノだけが…
俺は、首を横に振った。
「ううん、やめとくよ。俺はもう、ここのスタッフじゃないし。部外者がウロウロしてるのは、良くないでしょ」
「…そうか」
「それに、誉先生が唐揚げつくってくれるって言ってたけど、先生一人じゃ不安だからさ。帰って手伝うよ」
「確かに…あいつ、医者のくせにとんでもなく不器用だからなぁ」
呆れたように嘆息した那智さんに、つい笑いが込み上げて。
「手術は、上手なのにね」
小さく笑いながら言うと、那智さんは嬉しそうに目尻のシワを深くする。
「じゃあ、すぐにタクシー呼んでやるから、ちょっと待ってろ」
「いいよ。歩いて帰るから」
「いや、でも…」
「俺、もう23歳のいい大人だよ?子どもじゃないんだから、大丈夫」
「そうか。そうだな」
「うん。じゃ、後で。お仕事、頑張ってね」
店を出ると、空は美しい茜色に染まっていて。
その色に塗られた街をゆっくりと歩きながら、スマホを取り出した。
履歴を確認すると、奏多からの着信が3件。
一度、深呼吸をして。
奏多の番号を、タップする。
『凪?』
俺からの電話を待ってたみたいに、ワンコールで奏多が応答した。
「うん。ごめん、折り返し遅くなって」
『いや、いいんだけど…なぁ、もしかしてだけど…泣いてた?』
「え…」
なんでわかったの…?
「は?なにそれ。泣いてるわけ、ないし」
泣いてたことを当てられたことが、なんだか悔しくて。
ついつい可愛げのない声が出てしまうと、向こう側で奏多が焦った気配がする。
『ごめん、ごめん!怒んないで!』
今どんな顔してるか、簡単に想像ついて、思わず頬が緩んだ。
「別に、怒ってないよ。で?なんか用だった?」
自分でも、なんて可愛くない言い方しか出来ないんだろうって呆れるけど。
『あ、うん。曲、出来上がったからさ。一番に、凪に聴いてもらいたくて』
奏多は全然そんなの気にしてないみたいに、いつも通りの口調で答えてくれて。
「え?早っ」
『まぁ、俺が本気になればこんなもんよ』
「へー、すごいねー」
『なんだよ、その棒読み!』
他愛もない会話が、俺の暗く沈んでいた心をそっと掬い上げてくれる気がする。
ああ…
今、会いたいな…
なんか無性に
奏多の能天気な笑顔がみたい
『…まぁいいや。これから、会えないか?』
俺が思っていたことを、奏多が言葉にして。
とくんと、また心臓が音を立てた。
思わず、うん、と返事をしそうになって。
でも瞬時に浮かんだ誉先生の寂しそうな顔に、なんとか思い留まる。
「…ごめん。今日は、ちょっと用事があって」
『あー、そっか。ごめん。急すぎたよな』
なのに。
あっさりと引き下がった奏多の声に、寂しさが湧き上がって。
「明日っ…明日、なら、大丈夫…」
気が付いたら、自分からそう言ってしまっていた。
『マジで?じゃあ、明日会おうぜ』
「うん」
『何時頃なら、いける?』
「お昼過ぎには、帰ると思う」
『じゃあ、昼メシ食ったら、凪んちに行くよ。あ、ついでに約束してた肉じゃがも作ってやろうか?』
「ホント?楽しみ」
『おう。期待して待っとけ。じゃあ、明日な』
「うん。じゃあね」
通話が終わる頃には、辺りはもう夜の帳が下りてきてて。
さっきよりもずっと軽く感じる足で、俺は誉先生の診療所へ向かった。
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