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奏鳴曲 28 side凪

「あのさ…」 マンションへ帰る道の途中。 当然のように隣を歩く奏多に声を掛けると、口ずさんでいた鼻歌を止めて俺の方を向いた。 「ん?」 「俺のマ…お母さんも、ピアニストだったんだ」 「へぇ…そうなんだ」 奏多は一瞬驚いたように目を見開いたけど、すぐにいつもの優しい眼差しに戻る。 そのさり気ない気遣いに、ほわんと心が温かくなった。 「奏多のお父さんみたいにプロとかじゃないけど、でもすごく上手だった。繊細で優しくて…聴く人みんなを幸せにしてくれる、そんな音を奏でる人だったんだ」 幼い頃から数えきれないほど見た、あのホテルでピアノを弾く横顔。 その顔は、すごく幸せそうで。 周りを取り囲むギャラリーの人々もみんなニコニコ笑ってて。 あの空間が、ものすごく温かいもので覆われていて。 いつかみんなをあんな顔にさせるピアニストに自分もなりたいと夢見ながら。 俺はママの美しい横顔と美しい旋律に夢中になった。 「俺のピアノは、全部お母さんに教えてもらったもので…俺の音はお母さんの音。いつの頃からか、プロのピアニストになることは自分の使命みたいに思ってた。お母さんのピアノを、世界中に認めさせるんだって」 「…凪」 思わずって感じで口を挟んだ奏多に、大丈夫だよって笑みを向けると。 言葉を飲み込んで、じっと俺の次の言葉を待ってくれる。 「でも…お母さんが死んで…お母さんからもらった大事な曲、弾けなくなった。たくさんもらったはずの音も、わからなくなって…。前ね、奏多言ってたでしょ?お父さんのコピー人形になりたくないって。でも俺は、コピー人形でよかった。ううん、コピー人形になりたかった。それが唯一、もういないママとの繋がりみたいに思えて…」 「…凪…」 俺の名を呼ぶ奏多の声が、微かに震えた気がした。 「でも…今日、あのステージで、ママの声が聞こえた。凪、楽しいかって。俺、素直に楽しいって言えた。その瞬間、なんかママが笑ってくれた気がして…これで、いいのかなって。ママのコピー人形じゃなくて、俺は俺の好きな音楽をやっていいのかなって、そう思った。まぁ…俺の身勝手な思い上がりかもしれないけど」 本当はピアノ以外の音楽をすること ママは望んでないかもしれない でも 俺はやっと見つけた気がしたんだ ママの音じゃない 俺だけの音を 「思い上がりじゃないよ」 奏多の大きな手が、そっと肩に触れた。 「だってさ、もし凪のママがピアノ以外の楽器やろうとしてたら、どうした?反対した?」 「まさか!俺は、ママが幸せだったら楽器なんてなんでも…」 自分で放った言葉に、気付かされる。 「そういうことだろ?」 奏多の手が、そっと俺の肩を引き寄せて。 「きっと、凪のママも同じことだよ。どんな音楽でも…いや、別に音楽じゃなくてもいいんじゃない?凪が幸せなら、それで」 優しい声が、じんわりと染み入るように俺の心を包んでくれて。 「…うん。そうだよね…」 その肩に、頭を乗せた。 微かに香る、奏多の優しいフェロモンが、俺を包みこんでくれて。 ああ… 心地いいな… 「…ねぇ、奏多…」 「凪くんっ!」 口が勝手になにかを喋ろうとした時、どこからか俺を呼ぶ声がした。 ぱ、っと奏多が離れて。 それをちょっとだけ寂しいと思いながら、声のした方へ顔を向けると、俺のマンションの前に止まる見覚えのありすぎる黒のフェラーリから真白さんと櫂が降りてくるのが見えた。

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