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哀歌 15 side奏多

「僕には最愛の番がいるんだ。那智っていうんだけど…今日はちょっと用事があって出かけてるんだけどね」 唐揚げを揚げる俺の横で、サラダ用のレタスをゆっくり千切りながら。 先生は穏やかな声音で言った。 「那智と出会ったのは、僕がまだ大きな病院で働いてたころ…那智が、運命の番を亡くした直後だったんだ」 「え…」 その穏やかさとは程遠い話の切り口に、思わず手が止まる。 「那智のお腹にはその番の子どもが宿ってて…でも、番が死んだショックで流産して、その際の大量出血でうちの病院に運び込まれた時には瀕死の状態だった。…って、奏多くん!唐揚げ!焦げるよ!」 「え?あ、うわぁっ!」 話に集中してたもんだから、唐揚げのこと忘れてしまって。 二人で慌てて油のなかから肉を救出した。 「危なかった…これなら大丈夫かな」 「すみません…」 謝ると、優しい眼差しで子どもにするみたいに俺の頭を撫でる。 でもそれが、少しも嫌な感じはしなくて。 寧ろ安心感さえ感じて。 それだけで、誉先生はいいお医者さんなんだろうなと感じた。 「それで…?」 慎重に唐揚げを揚げながら、話の続きを促すと。 「治療の甲斐あってなんとかヤマ場は越したけど、今度は殺してくれって暴れてね…それが落ち着いたら、今度は感情なんてなくなったみたいに虚ろな目で宙を見てるだけで…見てるのが辛かった。僕の祖父もΩ専門の医者だったから、番に先立たれた患者や番を解消された患者は見慣れてたはずなのに、すごく辛かったよ。きっと、その時にはもう那智に惚れてたんだろうなぁ」 先生は、昔を懐かしむように目を細める。 「ただ…生きる屍みたいになっても、自分で命を絶とうとはしなかった。その時の僕は、それだけが救いだと思ってた。愚かなことにね」 「それって…もしかして…」 「彼の運命の番が言い残した最後の言葉が、生きてくれ、だったからだよ」 想像していた通りのセリフに、思わず息を飲んだ。 それ… 凪に斎藤伊織が残した言葉と同じ… 誉先生は、波一つない穏やかな海のような深い眼差しで、俺に頷く。 「僕もね、君と同じだったよ」 「え…?」 「苦しんでる那智を見ても、なにも出来ないと思ってた。運命の番という唯一無二の存在を亡くした那智を救うことは僕には…いや、誰にも出来ないんじゃないかって」 「…はい…」 凪と斎藤伊織が運命の番だったかどうかはわからない でもずっと好きだった人とようやく番になって その人をたった一ヶ月で亡くした凪はその時の先生の番さんときっと同じ気持ちなんだろう でも… 「…先生は、どうやってその人と番になったんですか…?」 俺の疑問に、誉先生はニコッと笑って。 「奏多くん、君さ。もし目の前で溺れてる人がいたら、どうする?」 唐突に、そんな質問を返してきた。 「え?」 「助ける?それとも、見捨てる?」 「そりゃ、助けるに決まってるじゃないですか!」 「じゃあ、その人がこのまま死なせてくれって言ったら?それでも助ける?」 「もちろんっ…」 助ける、と言いかけて。 不意に先生の意図に気がつく。 先生も俺が気が付いたのがわかったみたいで、笑顔でまた頷いた。 「僕のエゴだよ。そんなのは、嫌という程わかってる。それでも僕は、過去の記憶という泉で溺れてる那智を見捨てるなんて出来なかった。そして、そこから引き上げるのは僕じゃないと嫌だとも思った。那智の中に残る想いごと全て、僕が抱き抱えてやろうと。だから、那智の気持ちなんてお構い無しに、入院中は毎日顔を見に行ったし、退院してからも何度も何度も電話したりして…呆れながらも、少しずつ笑顔を見せてくれるようになった時には飛び上がるほど嬉しかったなぁ。そして、久しぶりのヒートの時には僕を呼んでくれてね。嬉しくて舞い上がっちゃって…つい、勢いでうなじ、噛んじゃった」 「えええっ!?」 勢いって…! 「まぁ、この方法はオススメはしないよ。正気に戻った那智に思いっきり殴られて、1週間職場に出られないほど顔が腫れ上がったからね」 戯けたように肩を竦める先生は、それでもすごく幸せそうで。 「相手の気持ちを慮ることも大切だけどさ。それだけじゃなにも解決しないこともある。凪はね、伊織くんが死んでから誰にも心を開かなかった。特にαにはね。家族である彼の父親も、双子の弟も、凪の心に触れることが出来なくなったんだ。そんな凪が、君には自分から伊織くんの話をした。αである君に。それがどういう意味なのか…君だって、なんとなく感じてるんじゃない?」 優しいけど、とても強い光を湛えた瞳で、俺の背中をそっと押してくれた。

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