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第2話 二人の秘密

 初めて好きになったのは男の人で。 「二次会、行かなくていいの?」  クラスの担任の先生だった。 「……ぇ?」 「人気だったじゃん。女子、大騒ぎしてた」  本当に人気でいつも誰かに話しかけられてて。いつも誰かが隣にいた。  独り占めなんて到底無理だった。  教えていた教科は英語。だから、英語の授業がいつも楽しみだった。  騒がしい女子のおしゃべりの声に邪魔されることなく先生の声を堪能できるから。  柔らかく滑らかな発音で語られる英語にうっとりとしながら聞き入っていた。 「……行かない」 「そっか」  この低音がたまらなく好きだった。  かっこよくて、いつだって目で追ってた。夏手前、まだエアコンはつけてない、教室の熱気を掻き回すように首を振る扇風機の風に先生の長めの前髪が揺れるのを見つめて、ときめいて。  目が合うと、心臓が飛び跳ねて仕方がなかった。  好きで、たまらなかった。  先生のこと。 「じゃあ……」  二次会に向かうメンバーはもういない。  一次会で帰るメンバーも、もう多分どっか行った。  俺は顔も覚えてないから分からないけど、繁華街は残暑と人の多さのせいか熱気がむせ返るほどで、立ってるだけで汗が出てくるから、じっとなんてしていたくない。一次会だけ参加組は早々に解散してバラバラに散って行ったと思う。  もし、二次会のカラオケはいやだけど、もう少し話したいとか飲みたい、とか思って個別に二次会みたいなのをしてる奴がいたら、きっともうどっか店に入って、涼んでる。 「暑いな……」  そう言って、先生が腕時計を見た。  腕時計、違ってる。前は革のベルトのだった。新しくしたんだ。  それから、指輪。 「何か用事ある?」  して、ない。  けど、してったって、隣にいた女子が言ってたよ?  外した?  あの女子の見間違い?  そんなわけない。見たって言ってた。シルバーのなんのデザインも入ってなしシンプルな指輪。  してないってことは外したの?  俺に話しかけるために? 「この後」 「……ぇ?」  今、この場にいるのは、俺と、先生だけ。俺は、帰るわけでもなく先生の新しい腕時計と指輪をしているはずなのにしていない薬指をじっと見つめてた。 「もし、この後なんにもないなら」  ないよ。 「飲み直す?」 「……ぁ」 「暇なら」 「……ぅん」  この後なんて、なんにもない。 「じゃあ、決まり」  だって俺は先生に会いに来ただけだから。  自分の恋愛対象が同性っていうのはなんとなく気がついていた。  例えば、皆が華奢な女の子を目で追いかけるみたいに、俺は、骨っぽくて筋肉質な背中を見つめてドギマギしてたし、皆が真っ白で細い女の子の指先や腕にときめくみたいに、筋っぽく硬い腕に、関節がゴツゴツしてる指にクラクラしていたから。  女の子とは全く違う低い声が好きだった。  女の子にはない広い肩幅に焦がれてた。  女の子にはない、引き締まった胸板に抱き締められたいと思ってた。  それが先生だった。  でももちろん、自分の恋愛対象の性別がわかったからって、好きな人ができたからって、何かしようなんて思わない。  俺はきっとただの生徒で。  彼は先生で。  歳の離れたガキと大人。  片想い、で終わると思ってた。  一人で、胸の内だけで騒ぎ立てるだけの、小さな片想い。  ――相田って、部活入ってたっけ?  突然声をかけられて、アイダって? って、パニクったっけ。  ――放課後、予定なかったら資料作り手伝って欲しいんだけど。  そう言われて、俺が話しかけられてるんだと、飛び上がるほど大喜びした。  まさか、先生にそんなことを言ってもらえるなんて思ってなくて、普通なら放課後なんて早く遊びに行きたいし、早く部活に参加したいはずなのに、元気に返事をしたのを覚えてる。  嬉しそうに。  笑顔で答えて。  ――ありがとうな。  笑われたのを覚えてる。 「店、ここでいい?」 「ぁ、別に、どこでも」 「オッケー」  適当に選んでくれた店だったけど、やっぱり土曜日の夜はテーブルが満席で、案内されたのはカウンターだった。でもそのほうがよかった。  真正面じゃ居心地悪い。 「レモンサワー? だっけ?」 「……ぁ」  俺が飲んでたの、見て、た。  コクンと頷くと、先生がレモンサワーと焼酎の水割りを頼んでくれた。  それから、おしぼりで手を拭いて、着ていたジャケットを脱いで。その手、指先の動きをじっと見つめてる。昔みたいに。 「…………」 「まさか、来るとは思わなかったな」 「……まぁ、同窓会の連絡もらったし。予定なかったから」  嘘だけど。 「そっか……」  放課後、資料作りを手伝うのに英語の教科準備室に向かう俺はスキップしそうだった。それを堪えながら、早歩きをしてたっけ。 「モデル、やってるんだろ?」 「全然、バイト感覚の、だけど」 「すごいよ。女子が、話してた」  モデルっていう仕事に憧れてたわけじゃないし、モデルになりたい、とか思ったわけじゃない。ただ、モデルしたら、どこかで先生に見つめてもらえるかもしれない、とかそんな程度で始めただけだよ。だからファッションショーとかじゃない。ネット広告のアパレルモデルとか、そういうの。 「俺も驚いたよ」 「……ぇ」 「元気そうだって思った」 「……」  知ってて、くれたんだ。  俺が転校した後、モデルしてたの、見てくれてたんだ。 「ぅ、ん」  やば。嬉し。 「女子が大騒ぎだな。あの頃も、今も」 「……別に」  先生と過ごせる。  先生と二人きり。  先生と、って。  嬉しくて、溶けそ。 「酒が飲めるんだもんな」 「……何それ」 「あはは」  先生が笑ったところで、レモンサワーと、焼酎の水割りが届いた。 「腹は?」 「さっき食べたから、あんま」 「じゃあ……」  飲み物を届けてくれた店員がフードメニューを手に取った先生の隣で待っていると、いくつか、軽くつまめるようなメニューを適当に先生が選んでくれた。  枝豆のオリーブオイル炒めと、燻製のソーセージ、それから。 「あれ? これ好きじゃなかった?」  メニューをじっと見つめてた俺が不服そうな顔をしているように見えたのか、先生が、少し驚いたように眉を上げて、俺の顔を覗き込んだ。  ――手伝ってくれたお礼。  そう言って、先生がくれた、透明なビニールシートに包まれた一口サイズのラムレーズンのクリームチーズ。  ――美味いよ。飲み物は……コーヒーしかないけど。しかも砂糖もミルクもないし。  俺はコーヒーをブラックじゃ飲めなくて、だから、大丈夫って、飲み物は断った。そしたら、手伝ったご褒美って、その個包装されたラムレーズンのを口に放り込んでくれた。  ――!  ――美味い?  コクンと頷いたんだ。  初めて食べた。  まろやかなクリームチーズのほのかな酸味に、レーズンのラム酒がふわりと鼻先で広がって。 「ラムレーズンのクリームチーズ」  大人の味がした。  ラム酒のの香りが強く残ってドキドキした。子どもでもわかる独特なお酒の風味。大人だけが知っているはずの香り。  それに、あの時は喉つっかえて食べにくかった。飲み物なしで、先生と二人っきりっていうシチュエーションの舞い上がってて、喉奥がキュッと狭くなってたから、食べにくくて仕方がなかったのを覚えてる。  ――他の子には内緒な。  そう言いながら笑ってくれた先生に、くらりと酔っ払ったみたいに、蕩けたのを覚えてる。 「懐かしいな」  先生が作ってくれた二人だけの秘密に、酔っ払って、胸の内でおおはしゃぎしてたのを、ひどく鮮明に、まるでつい昨日のことみたいに覚えてる。

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