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第3話 ファーストキス
焼酎なんて飲むんだ。
知らなかった。
まぁ、高校生の前で飲むわけないから知ってるわけないんだけど。
「今、大学生だっけ?」
「うん」
「そっか。大学生」
そこで小さく笑ってグラスを傾けた。焼酎が揺れてグラスの中に敷き詰められていた氷がカタンと音を立てる。
なんとなく、大人の音、って思った。
大学のカフェテラスや講義室、居酒屋の雑多な会話の中では聞くことのない音。
先生が案内してくれた店も静かで、山本や大学とかの同世代とは絶対に選ぶことのないような、どこか落ち着いた雰囲気のあるお店だった。
まるで、あの教科準備室みたいに。
どこもかしこも生徒がいて騒がしくて賑やかだけれど、そこだけ、あの教科準備室だけ特別に静かだった。
それに似てる。
――また頼んで、すまない。平気?
コクコク一生懸命に頷くと、その時も笑ってくれた。
次の資料作りの手伝いの時には、コーヒーがあった。
ミルクも砂糖も先生が用意してくれて。
まるで俺のために用意してくれたんじゃないかって思えて、嬉しくてたまらなかったんだ。学校の中、教室では香るはずのないコーヒーの香りはやたらと際立っていた。
ほろ苦い香り。
高校生の俺には少し不慣れなその香りは特別なことをしているという気持ちにさせた。
――相田。
学校の先生と生徒。
けれど、その学校の片隅、教科準備室という、生徒の俺があまり居座ることのない四角い空間で、学校では食べることのないはずのラムレーズン。飲むことのないはずの甘いコーヒー。甘いけれど、缶とか、ペットボトルのよりずっとほろ苦いコーヒー。
それを飲み終わってしまうのがもったいなくて、いつもちびりちびり飲んでた。
三回目の手伝いの時だった。
よく覚えてる。
その日は一日雨で、冊子にする紙が少し湿気を吸っていて、それにずっと触れている自分の指先もなんだかしっとりと濡れているような気がした。それから、紙質が違うからか、ホッチキスで留めにくくて、何度か失敗したりして。
また、芯がちゃんと留まらなかったって不服な顔をしたところを見られて、笑われたんだ。優しく。それから。
――休憩しようか。
そう言って先生がいつものコーヒーを淹れてくれた。
俺はそれをいつも通り、ちびりちびり、教科準備室の壁に置かれたソファのところに座って飲んでた。普段、先生は自分のデスクのところで飲んでるけれど、その時は隣に座って。
――熱すぎた?
ちょっとずつしか飲めない俺の様子に先生が笑いながら訊いてきて。
大丈夫って。
答えようと顔を上げたら、目が合った。
すぐそこ。隣で、目が合って、心臓が跳ねた。
教科準備室がとても静かで、時間、止まってるみたいだった。
鮮明に覚えてるんだ。
――…………。
ファーストキスだったから。
先生が隣にいた。
先生の唇が触れた。
俺の唇に。
それから。
――甘い。
そう、先生が呟いた。
でも、俺には少し苦かったよ。
触れ合った唇に僅かに残った砂糖もミルクも入っていない、ブラックコーヒーの味。
先生が飲んでいたコーヒーの味。
俺は砂糖もミルクも入れたから、先生には甘くて。
俺にはほろ苦い、ファーストキスの、味。
びっくりして何も言葉が出なかった。
先生とキスをしたってことで頭がいっぱいで。好きな人と、キスできたって、そのことしか頭の中にはなくて。
朝から降っていた雨の音すら聞こえなかったくらい。
――……ぁ、の。
だから、その時何を言おうとしたのか、今もわからないんだ。
あの、なんでキスしたの? って訊きたかったのか。
あの、俺、先生のこと好きって言いたかったのか。
けど、それ以上の言葉が出てこなかった。
出てこなくて。
――先生。
続きをしゃべることなく、先生を呼んで。
――…………。
もう一回、しっとりと唇に触れさせてもらったのを覚えてる。
「文系? どこの?」
この唇に触れたことがある。
「違う。理系」
「……へぇ」
あの時もこうして隣に座っていた先生とキスをしたんだ。ソファで、肩が触れるか触れないかの距離から、キスの時だけ、その肩が触れて、たまらなくドキドキした。
そうだ。
あの時、ファーストキスの後、先生、って呼んだら、一瞬だけ、瞬きをしたら見逃してたくらい、ほんの一瞬だけ先生が驚いた顔をした。
今みたいに、少しだけ眉を上げて、びっくりした顔をして、けれど、すぐにいつもの笑顔に戻って。
「意外だな」
いつもみたいに優しく笑って、その唇がゆっくり近くに来てくれて、そのまま触れたんだ。
「そう? 意外?」
「だって、英語、すごく頑張ってただろ。だから文系かと思った」
「……そうだっけ」
違うよ。
英語、好きだから頑張ってたんじゃないよ。先生が英語の先生だったから、少しでも良く見られたくて頑張ってただけ。英語は苦手だったよ。今も、昔も。
あの時はダントツテストの点数良かったけど、今は全然。あんなに猛勉強したのに、あっという間に忘れたし。
英語は忘れたのにさ。
「そうだったよ」
あの雨の日のことは本当によく覚えてるんだ。
湿気た紙のざらついた感じも。
コーヒーの香りも。
唇に残ったキスの感触も。
何もかも、全部、今さっきのことみたいに、覚えてる。
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