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第4話 声

 先生としたキスをとても鮮やかに覚えてる。  知らないでしょ。  俺さ、あの日、本当に本当に嬉しくて信じられなくて。  キス、しちゃった。  先生と。  嘘みたい。  本当に?  本当だよ。  まだ感触残ってるじゃん。  そんなことを繰り返し繰り返し思って、電車乗り過ごしたんだ。乗り過ごしても笑顔で、雨で制服の足元がびしょ濡れになってもちっとも気にならなくて、足取り軽やかに帰ったんだ。  そのくらい有頂天だった。  そんなだから先生みたいなさ、手慣れた大人にはわかりやすかったと思う。  丸わかりだったと思う。  俺が向ける、隠し方も知らない、幼くて拙い好意なんて。  先生が好き、って。  笑ってしまうくらいわかりやすかったと思う。 「ね、先生」 「?」 「なん、」  なんであの時キスしたの?  そう、訊こうとした。ポロリとどんどん積み上げた角砂糖がてっぺんから一つ、音もなく、転がるみたいに、何気なく、なんとなく。 「なんでもない」  でも、訊いて? それで?  魔が差したんだって言われるのがオチな気がして、急いで言葉を引っ込めた。 「なんだよ。気になる」 「……焼酎って美味い?」 「これ?」 「うん。飲んだことない」 「……飲んでみる?」  頷くと、透明な水のような液体の入ったグラスを手渡してくれた。  もらって、一口だけ飲んで、その独特な味に隠すことなくしかめっ面をすると笑ってる。 「不味い?」 「ん。まぁ……不味い」 「はは。正直、そっか」  楽しそうに笑ってる。  やっぱ。 「じゃあ、俺もレモンサワーちょうだい」  好き。 「いいけど」  先生が、好き。  担任でもあったから、毎朝、先生が出欠席を取る。俺は「相田」だからいつだって一番に先生に名前を呼んでもらえる。  毎朝、一番に。  ――相田。  朝一番の声は殊更低くて、そして少し掠れていて。  ただ名前を呼んでくれただけなのに、毎日、毎朝、舞い上がって、嬉しくなっていた。  でも、だから余計に、もっと舞い上がったんだ。  特別で先生だけがいるはずの教科準備室。  そこで四回目のキスをした時。  触れる、のではなく、深くて濃い絡まり合うキスに。  ――ンっ……っ。  その大人が交わすようなキスの合間に零れた自分の甘ったる吐息にすら驚く俺を先生が優しく抱き締めてくれた。  ――志保(しほ)。  溶けそうなくらい嬉しくてたまらなかった。  出席番号一番の名前じゃなくて。  先生の呼び方じゃなくて。  キスを交わす恋人みたいに呼んでもらえて。  ガキは、生徒は、入ることのない、その四角い空間で俺のこと、志保って呼んでくれた先生の声は、朝一番で呼んでくれるそれよりも低くて、掠れてて。  初めて聞いた自分の蕩けた声に驚く俺を、あの焦がれて飛び込んでみたかった胸の内に閉じ込めてもらえた。  抱き締めてもらえた。  名前、呼んでもらえた。  もうそれだけで溶けてしまいそうだった。どうにかなってしまいそうでしがみついたんだ。そしたら先生は笑ってた。いつもみたいに、笑っていた。  その後、すぐ試験期間に入った。  期末試験前の一週間は部活動も中止、放課後は速やかに下校しないといけなくて。  俺の「お手伝い」も中止になった。  キスのことをふと思い出しては手を止めて、うっとりとする。それからまた溜め息混じりに試験勉強した。  その試験期間の初日だったっけ。夏季特別授業の希望者がいるか? って朝礼で先生が話してた。  夏休みの間、午前中に主要五教科の特別授業が行われるから、夏期講習の代わりになるぞって、先生が話してて、俺は一目散でさ。  必死に先生のことを追いかけてた頃を思い出した。 「今も、熱心な生徒?」 「……」 「けっこう評判良かったぞ。お前、夏季授業全部希望出したろ。物理の山下先生が喜んでた」  そう、なの? 知らなかった。 「物理は不人気だからって」  そんなことないよ。そもそも理系の俺はそっちの方が得意だったし。  でも、夏休みにせっかく受けたその授業のほとんどは覚えてないけれど。ずっと上の空だった。ずっと、熱心に教えてくれる先生の頭上にある時計ばかりを見つめてた。あと十分、あと五分、あと少し。  そしたら――。 「言ってた」  先生のところに行こう。 「……ふーん」  夏休みなんていらない。邪魔。  毎日だって学校に行きたい。  そんなことばっかり考えてた。  考えてたけれど、いざ、夏休みの夏季授業に参加してさ。学校に来たら、今度はすげぇ緊張したんだ。初日は、数学だった。英語を教えてる先生が学校に来てるのは車でわかってた。先生の白い、ちょっと小さな車。それが職員用の駐車場に停まってるのは見つけてたから、いるのかわかってたけど。「用事」なかったから。  初日、めちゃくちゃ緊張しながら行ったんだ。  先生のとこ。  ――……ぁ。  コンコンって二回ノックして、扉の向こうから聞こえた低い声に、心臓破裂しそうだった。  ――……ぁ、……。  面白いように言葉が出てこなかった。ギクシャクしながら、それでも先生のデスクのそばに歩いてく。それを先生が無言で見つめてた。その視線にまた更に緊張しながら。  ――…………。  俺からキスしたんだ。  デスクで何か仕事をしていた先生の横に立って、背中を丸めて、唇を触れた。  触れてもらいたくてたまらなかった。  試験期間中は先生のところ来れなかったから。流石に怪しまれるし。それで試験がようやく終わって、夏休みに入って、夏季特別授業が開始されるまで数日開いてたから、だから。  ――先生。  先生とキスしたくてたまらなかった。  熱に突き動かされるみたいに拙いキスを繰り返し、繰り返し。  ――志保(しほ)。  そう、キスで触れ合う唇が呼んでくれたら、もう、止まれなかった。  ――先生っ。  自分でもわかるくらい、熱っぽくて、甘ったるくて、ねだる声だった。  して、って。  せがむ声だった。

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