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第7話 別れ話

 は?  って、顔をしたら、困ったように先生が笑って、身じろいで、ベッドがわずかに揺れた。  それはおもちゃの指輪。  サイズなんて知るわけないじゃん。  俺よりもずっとでかい手の、俺よりもずっと骨っぽい先生の指のサイズなんて。  知るわけがないから、指輪のサイズ分からなくてさ。  困ったんだ。  これがあったら、先生と夏が終わっても、続くんじゃないかって思った。  あの高校はバイト禁止だったから、お小遣いとそれからお年玉の貯めてた分をいくらか持って、駅ビル行って、「あ……」ってさ、その時なった。  サイズがわからないって。  最初は大人の先生にもしてもらえるそれなりの値段のやつを買うつもりだった。  けど、そんなところのは指にピッタリとしたのを選ぶものでしょ。適当じゃ、ダメじゃん。して欲しい指は決まってたんだ。だからその指のサイズがわからないといけなかった。  指輪のサイズを自分で変えられるのなんて、フリーサイズのさ、メッキでできた、指でちょっと力をこめたらすぐにひん曲がってくれるようなのしかなくて。すごく悩んだよ。指サイズをなんとなくで選んで買おうか、このメッキのにするか。  だって この指輪じゃ、おもちゃじゃん。  けど、結局、サイズがわからないんじゃダメだから、悩んで、悩んで、買ったのはサイズを変えられる指輪。  落胆しながら帰った。  それでも一応持って行って、先生に渡そうと思った。その日が最後だったから。  夏季特別授業。  最後は英語で。  まるで神様が、ほら、もう、そのしてはならないコトはここで終いにしなさい、と、言われてる気がした。  終いにできるよう、今日めいいっぱい堪能して。ここでお終い。  そう、諭されてる気がした。  先生に滑らかな低音が教室に響く。  俺ひとりだけがそれを名残惜しむように聞き入っていた。  授業が終わって、いつもなら駆け足みたいな早歩きで向かうはずなのに、ここをこうして通うのも最後なんだって、一歩一歩噛み締めるように歩いて。  いつもよりも少し遅く現れた俺に、先生は少し不思議そうな顔をしてた。  それでも笑ってくれると、胸が苦しくて痛くて。  その表情に先生がどうかしたか? って訊いたんだ。  そりゃそうだよ。  いっつもおおはしゃぎで現れるのに、苦しそうな顔してるんだから。  そこで、話して、指輪を――。  ――夏季特別授業、皆勤賞だったな。  先生が笑って髪を掻き上げた。その腕にあった革のベルトの腕時計。黒い革に金色のフレームの黒い時計。  かっこよかった。  大人って感じで。  似合わないって思った。  金色のフレームの時計に、銀色の指輪は。  黒い革の大人っぽい時計に、いくらでもサイズを調節できるメッキでできたおもちゃの指輪は。  不釣り合い。  俺が買ってきた指輪があまりに幼稚で。  ――ご褒美にアイス買ってきたんだ。待ってな。取ってくるから。  渡せなかった。  けど持って帰ったって、仕方ないじゃん。  だから、先生がアイスを取りに行ってくれていた間に捨てた。  似合わないもん。  数千円の拙いおもちゃの指輪なんて。  これがあったら、先生と離れてても、一緒にいられる気がするとか、夢見がちな子どもの考えそうなこと、付き合えないでしょ。  ――他の先生も褒めてたぞ。熱心だなって。  熱心な生徒。  英語もほぼ満点。  夏季特別授業皆勤賞。  俺は生徒で。  先生は大人で。  ――アイス。溶けないうちに。  ご褒美はアイス。  ね?  ほら、子どもだと思ってる。  可愛い生徒に特別なご褒美、そのアイスを食べ終わったら言おう。  もうお終いですって。  そう思いながら食べたアイスは甘いのに、嬉しくなかったのを覚えてる。 「志保が帰った後、ゴミ箱に落ちてたのを見つけた」  本当は、よくあるじゃん、ドラマとかで、箱のケースに入ったさ。青とか赤のベルベットの、あれを思い描いてたんだ。パカンって、それ開いて渡すの。  けど、実際はおもちゃだからそんなの入れてもらえなくて巾着袋だった。手のひらサイズの。  色も思ってたのと違っててさ。 「灰色の布の巾着」 「……」 「なんだ? って、志保が帰った後に見つけて、拾って」  中には指でサイズを調節できる指輪が入ってた。 「それ、を……?」 「ずっと、普段はな」  嘘、でしょ。 「さすがに本人に知られたら恥ずかしいから、話しかける前に外したんだよ」  先生はゆっくりとその指輪を指にはめて、目を細めて笑った。 「今日、していこうか迷ったんだ。志保が来るって知らなかったから、じゃあ、付けても大丈夫だと思ったけど、来るから、かなりびっくりした。その場で外すわけにもいかないし。話しかける前にこっそり外した」  だって、先生は。 「ゴミ箱から拾って、それをずっとしてたってドン引きされるかもしれないだろ」  あの時。 「俺が、もう引っ越すんだって言ったら、元気でなって言って、そうだなって。すんなり俺のこと」 「そりゃ、知ってたんだから。そうだな、しか言えなかったよ。元気でって」  そんな。俺は、そうだよね、あっさりしてるよねって。離れる手の簡単さが切なくてたまらなくて。 「担任なんだ、手続きとか、色々あるから、その少し前から知ってたよ」 「なん、」 「知ってたけど、好きだったから」 「なんで」 「知らないフリをしたんだ。夏だけだってわかってたから」  嘘、だ。 「一目惚れ」  嘘。 「初めて担任になって、教室で出席番号取る時に見つけて、そこで」  あの時は出席番号で並んでた。俺は一番に名前を呼ばれるから、教室の窓際、一番前に座っていた。 「……だ、って」  言葉が上手に出てこない俺を見て、先生が笑った。 「好きだったよ」  ――俺、引っ越すんだ。 「けど、歳違うだろ」  ――そうなんだ。 「お前はまだ高校一年生で、これからもっとたくさん色んなことを経験して、大人になっていく。俺とのことなんて霞むような出会いも出来事もあるかもしれない」  ――ずっと遠く。親の仕事で。 「しかも会うのも難しい距離なら尚更。それに」  ――そうだな。 「俺とじゃ、全部ダメだろ。先生と生徒っていうのは、そもそもアウトだろ」  ――元気でな。 「手放すべきだろ」  ――志保。 「だから、そう言ったんだ」  そう言って、俯いた先生が髪を掻き上げた。腕時計はシルバーの金属のベルトに変わっていた。  金のフレームのじゃなくて、指輪と同じ、シルバーの時計に。 「好きだった」  変わってた。

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