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第34話 おやすみなさい、のその前に
一緒に鍋を食べて、セックスして、お風呂入って。
「あー、そうだ。今日の撮影で、ハンドクリームもらったんだ」
「ハンドクリーム?」
それで、先生に髪を乾かしてもらう。
ちゃんと本物の恋人同士でさ。
嘘みたい。
さっきセックスしたベッドに新しいシーツを広げて、同じシャンプーの香りをさせながら、ふわふわに乾かしてもらった髪を指先で漉いて整えてもらってる、なんて。
「そ。手出して、塗ったげる」
「俺の手はいいよ」
「塗りたい」
ついこの間までは想像もしてなかったことで、頭の中で、あの夏の続きを妄想して作り上げた光景でもあって。
「良いけど、もったいないぞ」
「なんで?」
「志保の手に塗った方がクリームも喜ぶ」
「先生の手に塗りたい」
そう言ったら、ベッドの上に座り直して手を差し出してくれた。ちょっとマッサージ師の気分。塗り方の良し悪しなんてわかんないけど。小指の爪一個分くらいを手にとって、自分の手のひらに満遍なく広げてから、その手で先生の手を握った。
ほわりと少し甘い香りがする。
甘いけど、こってり甘いんじゃなく、甘い中に花みたいなグリーンのような爽やかさも混ざった香り。
好きかも。
この香り。
「いい香りだな」
「うん。今日の広告、シャンプーのだったんだけど、同じラインでハンドクリームも発売するんだって。冬から発売だから今はまだ試供品。ほら、だから、パッケージが冬っぽいでしょ?」
手のひらサイズの試供用だけど、けど、持ち運ぶ時にはポケットに入る便利なくらいのちょうど良いサイズ。小型のチューブには雪の結晶が舞い散っているデザインがキレイだった。
「だから冬をイメージした香りらしいよ。冬のにおいってどんなかわからないけど」
「……ストーブ」
「ぇ? っぷは」
「体育館で昔使ってた」
「そうなの? あの体育館?」
俺がいたのは夏前までだから、冬のあの学校の様子は知らない。
体育の時にはもちろん使わなかったし、もう今はエアコンが完備されてるからそもそも使わなくなったんだって。けど、数年前までは、卒業式とか、美術作品の展示会とかで体育館を使用する時に使ってたんだって。
だから、先生にとっての冬のにおいは、そのストーブのにおい。
「志保は? 冬のにおいって言ったら?」
「えぇ? なんだろ。…………えぇ?」
わかんないよ。むしろ、無臭じゃん?
「あっ! あれ、おでん、コンビニの」
そう咄嗟に答えたら、先生がちょっとの間だけ、ぴたりと静止して、それから笑った。
「確かにな」
でしょ? ほら、コンビニ行って、おでんぐつぐつしてたら、冬って思うじゃん。
「先生は具、何が好き?」
「た」
「卵と大根以外で」
途端に難しい顔をしてくれるのが楽しい。
「……じゃあ、餅巾着」
「ほー」
「志保は?」
「え……俺? うーん」
「もちろん。卵と大根以外で」
けど、それが美味しいじゃん。あと餅巾着も美味しいけどさ。
「じゃあ、はんぺん」
「志保ははんぺんね」
「え? じゃあ、大根と卵も」
そのうちおでんもする? おうちデートの夕飯に。その時になかったら。でもはんぺんと餅巾着だけじゃ、やじゃん。だから、大根と卵も大慌てでくっつけた。自分からそれはなしって言ったのに。
先生は手を差し出した姿勢のままノンビリとしてる。
「お客様、力加減いかがですか?」
「……」
「マッサージ師」
「なるほど」
そう言ったら、笑って、「了解」って、低い声が答えてくれる。優しくて、大人で、包容力のある、先生の声。ホッとするけど、ドキドキもする、好きな声。
「もう少し弱い方がお好きですか?」
「いえ、このままで、気持ちいいので」
こういう時、丁寧に会話してくれるんだ。ううん、とか、いや、とかじゃなく「いえ」って丁寧に返事をしてくれる。
「先生の指って長いよね」
「そうか?」
「うん」
「志保の良いところにちゃんと届いてる?」
「! ちょっ、今のっ」
セクハラしてみた、と言いながら笑って、指をぱっと広げてくれる。
「真っ赤」
「だって、先生がからかうからじゃん」
「志保に手のマッサージしてもらって、ムラムラしたから」
くすくす笑いながら、マッサージをしていた俺の手をぎゅっと握ってしまった。
「ありがと。気持ち良かった」
「ど、いたしまして」
お礼はキスにしてもらった。
「明日から、仕事大変でしょ? 頑張ってね」
「……」
「っていうか、今日も忙しくなかった? 俺、一人で来られたよ。荷物あるからつっても、一泊分だけじゃん?」
「……」
「たいして荷物持ってないし。あ、マッサージのおまけもつけますので。いつでもどうぞー」
お呼びください、なんて、ごっこを続けたままで遊んでる。マッサージ師ごっこ。
「荷物」
「うん。先生、忙しいじゃん。申し訳ないなって思うし」
「置く?」
「先生のマンションまでも道も覚えたし。あ、っていうか、俺にお使いとか頼んでもらって大丈夫だよ。買い物でもなんでも。先生のうちに来れる口実できるから」
「置いて」
「……え?」
「置いておけば?」
何、言われたのかわからなかったんだ。小さい声で、「おく」って言われて、なんのことか聞き逃しちゃったんだ。
「これ、今日、作っておいたから」
「……」
冬の甘い、けれど、どこか爽やかな香りのする手の中にあったのは。
銀色をした鍵。
「あとクローゼットにカゴもある。志保のカバンとか私物、入れておけるように。もちろん服とかは貸すよ。歯ブラシとか、下着くらい? その辺だけ入れておけば?」
「……」
「そしたら、毎回、待ちぼうけさせることもないし、志保も好きな時にこっちに来られるだろ?」
「……」
「……どう? 流石に、それは、不味かった、か?」
「……ぁ、う、ううんっ、ううんっ、全然っ」
同じ甘い香りのする手から手にカギを手渡してもらって。
「好きな時に来てて」
「いいの? 入り浸るかも」
「いいよ」
同じシャンプーの香りをする髪がコツンって触れて。
「荷物、めちゃくちゃ持ち込むかも」
「いいよ。入り切らなかったら、引き出し一つ開ける」
「っ、冗談だよ」
つい、この間までは想像もしなかった。
「このクリーム良いにおいだな」
頭の中で妄想だけ膨らまして、夢見たことが、今、このベッドに上にあった。
「匂いって、一番記憶に残るんだよ」
「そうなの?」
「あぁ。だから、これ、発売したら買おうかな」
「……」
「志保のこと思い出せる」
甘い冬の香りと一緒に、ここにあった。
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