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第35話 モデル
――匂いって、一番記憶に残るんだよ。
そう言ってた。
手の甲を鼻先に近づけると甘くて、けれど爽やかな、「冬」のにおいがした。
このにおいが、あの晩の気持ちを引っ張り出してくれるってことでしょ?
まだ、つい、数日前のことだから、においしなくたって、思い出すと感動して、頬が熱くなる。
――これ、今日、作っておいたから。
宝物を見つけたら、きっとこんな気持ちなんだろうな。
きっと、思わず鼻歌が出ちゃうような。
自然と口元が上がっちゃうような。
「キーケース、買おうかな」
こんな気持ち。
――好きな時に来てて。
荷物、置いていいって、すごくない?
服は貸せるから、それ以外の私物持っておいでって、すごいよね?
いつ買ったんだろう。結構でかいケース。なんでも入れておけそうな。でかいクッションが一個くらいまるまる入りそうな。
そこに俺の私物入れて置いていいんだって。
先生の寝室のクローゼットの中に置いてあった。けど、そこが面倒だったらリビングでもいいんだって。どこでもいいよって言ってた。
寝室に勝手に入っていいとか。好きにしていいとか。来たい時に来ていいとか。
先生。
ダメじゃん。
調子に乗っちゃうって。
「なんだ、ご機嫌だな」
「! 社長」
デスクのところで頬杖をついてた。今日はみんなまた出払ってるみたいで、俺一人だけだったから、のんびりしてたんだ。
「今日は?」
「あー、ホームページのリニューアルとか。写真の更新とかしてた」
「あぁ、最近忙しくてしてなかったっけ。ありがとな」
「いいえ」
社長はでかい観葉植物を少し眺めてから、どかっと自分の椅子に座って、ネクタイをちょっとだけ緩めた。
「今週末、志保は忙しい?」
「え? あ、ううん」
今週末はまだ先生のとこ行けないから、暇してた。カギはもらったし、いつでも来ていいって言われたけど、今週末が終わったら、中間試験が始まるから、そこは流石に遠慮しないとでしょ。中間試験が終わったら、今度は採点とかあるからまたそれも忙しそうで。だから、きっと会えるのは再来週末、かな。金曜日の夜とかになら行っても大丈夫かもしれない。
いつでも来ていいからって、好きなだけいていいからって、本当に先生の都合構わず行くのはね。
マジかってなったらやじゃん。
「忙しくないけど……経理?」
ちょうど月末だもんね。経理も兼ねてる社長のお手伝いかなって思った。モデル兼事務バイトだからさ。
「いや、撮影」
「来週? 急だね」
「あぁ」
「なんの?」
通販ページ用の、とか?
ちょうど冬用のが始まるくらいだもんね。
「広告」
チラシか。じゃあ、外撮影もある?
「大手コスメブランドの」
「……」
「冬コスメのイメージモデル」
「……ぇ?」
「大抜擢」
俺、が?
大手って。
そして、まだ、なんか思考が追いついてかない俺に、一つ一つ言葉を置いて、ゆっくり教えてくれる。
誰でも知ってるような、本当に大手のコスメブランドだった。ついこの間、新しいラインが立ち上がって、そのラインのトップイメージモデルは、大人気の超有名タレントが務めてた。テレビで見ない日ないんじゃない? ってくらい今売れてるタレント。女子中高生にすごい人気で。だからその新ラインの商品も女子の間でめちゃくちゃバズってるって。
「この前の撮影でカメラマンが志保のことを気に入ってただろ?」
あ、あの人、かな。テンション高くて、撮影時間長かった。
「あの写真も評判良かったんだ」
有名なカメラマンだったんだって。俺は、モデル業界に詳しいわけじゃないから、知らなかったけど。
あの時のシャンプーメーカーさんも小さな会社で、うちの、ここのモデル事務所みたいに、プロがいっぱいとかじゃない、アマチュアっていうか、ネットで成り立ってるようなとこなんだけど、あのシャンプーはすごく気合いを入れて開発したから広告にも力入れてて。
少し無理をしてでも有名なカメラマンに頼んでたらしい。
そのカメラマンが俺のこと気に入ってくれて。
だからあんなにテンション高かったんだ。
それで、そのカメラマンが、大手コスメブランドに俺のこと紹介してくれて。
大手ブランドも俺のことを気に入ってくれて。
「最近、お前の評価上がってたんだよ。表情が良くなったって。ちょいちょい言われてた。俺もそう思う。良い顔をするなって思ってた」
そんなの気にしたことないよ。職業モデルだし、広告の撮影は通販商品とかネット広告とか。誰も、表情なんて見ないでしょ? 通販で服を買う時に。シャンプーのネット広告でモデルの横顔見て、そのシャンプーを買おうと決めたりしないでしょ?
「撮影、今週末」
「え、あの」
「急遽になるんだが」
「……あ、うん」
びっくりしながら、コクンと頷いた。
ポカンって、してる。
そんな俺の様子に社長が笑って、撮影の時も口開けてるなよって、言いながら緩めたネクタイをまた締めて、立ち上がった。
撮影、だって。
なんか、ちょっと、突然舞い落ちてきた話に驚いて、心臓がドキドキしてた。
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