50 / 55

第48話 こびりついた苛立ちは

 いらない。  ―― 早めに切った方がいいと思う。  本当にいらない。  ―― 上手に切った方がいいと思う。  そんなのたったの数回しか会ったことのない他人に言われたくない。  そんな忠告はいらない。 「どうした。顔がずいぶんとブスだぞ」 「……元から」 「……はぁ」  撮影とインタビューを終えて、挨拶とかして回って、すぐに社長の車に乗り込んだ。帰りの車の中で、平川からのいらない忠告がずっと胸の中に残っていて、苛立ちが気持ちにこびり付いて剥がれない。それが顔に思い切り出てる。バックミラー越しに社長が俺のその「ブス」な顔を見つめてくるから、プイッと車の窓のほうへ顔を向けると、思い切り撫で付けるように社長の大きな溜め息が聞こえた。 「なんかあったのか?」 「なんも」 「そうか? その割には、俺が電話を終えて戻ってきたら、まるで別人みたいにへそ曲げてただろ」 「曲げてない」 「……ならいいが」 「今日、途中で降りてもいい?」 「車を?」  コクンと頷いた。 「……どこか寄るならそこまで送るぞ」 「いい。平気」 「……」 「プライベートでしょ? もう」 「まぁな」  だから最寄りの駅で下ろして欲しいと頼むと、社長が進路を変えてくれた。カチカチとウインカーが左に曲がることを知らせてくれる。 「駅、すぐそこだ」 「……うん」 「ここで下すけど、マスクくらいはしておくように」 「……いらない」 「しとけ。風邪予防」 「……」  差し出された黒いマスクをしたところで、車はごちゃごちゃと人も車も好き勝手に入り乱れた狭い駅のロータリーの一角に停まった。 「気をつけて」 「うん」 「明日も撮影あるからな」 「うん」 「マンションに迎えに行くから」 「いい。自分で事務所まで行く」 「迎えに行く」  けど、それだと。 「……うん。わかった」  社長の「一旦ちゃんと帰宅するように」って言いたそうな表情にコクンと頷いてから、マスクをつけて、車を降りた。  それからそのまま駅の階段へと向かってく。  時間はまだ夕方。今日は週末だから、先生は部屋にいると思う。  鍵、持ってるし。  行ってもいいって、好きな時に好きなだけいて良いって言われてるんだから、いてもいい、よね?  会いたいんだ。  平川に言われた、嫌な嫌な忠告をくしゃくしゃにして捨てたいんだ。  捨てても、その忠告をくしゃくしゃにした手にざらつきが残る感じ。手のひらに、その折り曲げてシワクチャにした忠告の折り目が突き刺さる感じ。  だから先生と手を繋ぎたい。  喉奥にこびり付いたイライラを洗い流したい。  ムカムカする胸を、腕を先生に抱きついて、くっつけて、撫でて治したい。  ――先生、撮影の仕事、早く終わったから、ちょっとだけ行ってもいい?  そうメッセージを送って、乗り込んだ電車の端でガラス窓に寄りかかった。もう、夏よりもずっと早くに陽が落ちてしまうようになった夕方、電車の向こうは真っ暗で、早く「うち」に帰らなくちゃいけないような気がした。  一回、乗り換えて、段々と先生のうちに近づいてくと、ホッとした。マスクが暑苦しくて、息苦しくて、外してしまいたいけれど、途中、乗り換える電車を待っていた時、正面に「ボーダレス」の広告看板があって、そこに「SHIHO」もいたから、マスクを外すのはやめておいた。  今日は撮影があったし、明日も撮影があるから、今週末は会えないはずだった。  先生は教師だから平日は忙しくて、俺も平日は大学があって忙しくて、会うタイミングがあんまなくて。  今日、会えないはずだったから、先生予定入れてたりしたかな。  ――いいよ。おいで。  そう言ってくれたメッセージに、少しだけ、苛立ちがこびり付いてヒリヒリしていた胸の辺りが、和んでいくのを感じた。このメッセージをさ、どうにか切り取って保存しておきたくて、スクショした。なんか、また嫌なことがあったらこれ見るだけで少し気持ちが上がると思うから。  それくらいに俺の中で大事なのに、なんで。  ―― あんな一般人となんて、やめとけ。  なんで、あんなこと言われないといけないんだよ。  あぁ、もう、ほら、またイライラしてきた。なんだよ、なんでも知ってるみたいに。芸能人だってただの人だろ。一般人とか関係ない。  俺は、俺で。  俺は、先生が大好きで。 「! っと、早かったな」  先生の部屋の前、先生がいるだろうからとインターホンを鳴らそうと手を伸ばしたところで、扉がガチャリと開いた。先生がすごく驚いて、ぶつからないように仰け反った。俺も、ちょうどのタイミングで扉が開いたことにびっくりして、そのままそこでフリーズした。 「おかえり」 「……ぁ」  すごい、絶妙なタイミングだ。 「夕飯、何もないから買い物しようと思ってな。部屋で待ってな。買い物済ませてすぐに戻るから」 「うん」 「中に……」 「ううん」 「……」  ぎゅっと抱きついて、そのまま玄関の中に入った。 「買い物、一緒に行く」  ほら、抱きついたら、胸のとこのムカムカが消えてく。 「撮影で疲れただろ? 待ってな」 「ううん」  先生と話したら、ほら、喉奥のイライラが治ってく。 「先生、お腹空いた?」 「……いや、俺一人なら適当に」 「なら、買い物、いいよ」 「……」 「いいよ」  手を繋いだら、ほら。 「なんもいらない」  あのいらない忠告をくしゃくしゃに丸めた手のひらが温かくなって、気持ちがようやく柔らかく解れた。

ともだちにシェアしよう!