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第62話 混沌

 嘘、でしょ。  辞めたなんて。  今日、学校を。  ――はーい、出欠取るぞー。席着けよー。  違うんだ。先生が学校辞めることになるなんて、思ってなかったんだ。  先生は何にも悪くなくて。  ――相田。  俺だよ。ねぇ、俺のせいだから、先生は悪くない。本当に、辞めさせる必要なんてないんだ。俺が全部悪いし、俺のせいだし、だから、お願い。  世界中から俺が非難されていいから。  俺だけにしてよ。ねぇ、マジで。  俺が好きなだけだから。勝手にせまったんだ。先生に色目を使ったんだ。先生はちょっと魔が刺しただけで、悪いのは俺で、先生はただ。  ――他の子には内緒な。  俺が先生のこと、好きだっただけ。  ――甘い。 「っ」  そう、世界中に言わないといけない。学校にも行って、事実無根だっつって、どんな理由で先生を辞めさせるんだって言わないといけない。先生との間には、当時、なかった。  なんにもなかった。  ただの学校の先生でしかない。  勉強を、英語、苦手だったから教わってただけ。  恋愛感情なんてあるわけない。  当時は先生としか見てなかった。  先生にとっても俺はただの生徒だった。  ねぇ、そうでしょう? 先生。  俺らの間に恋愛なんてものこれっぽっちだってなかった、でしょう? って。  言わないと、いけない。  先生は何にも悪くないって、ちゃんと。 「っ」  いわないとって、立ち上がった時だった。  カバンが膝から落っこちて、中に入っていたテキストとかノートとかが全部放り出されて。そのテキストからはみ出るように写真が、見えた。  俺の、SHIHOの写真。  いい表情が撮れたって言って、カメラマンさんがくれた写真。 「……っ」  そういえば、そうだ。  テキストんとこに挟んだままだったっけ。  写真、見せようと思ってた。  先生に。  けど、撮影がたくさん入ってて、会える時間とか減ってて、会うと、とにかく先生と過ごせる時間に夢中になっちゃって、つい、見せるの忘れちゃって。  まるで、あの頃みたい。  学校で、数時間しかない先生との時間。  短くて、もっともっと一緒にいたくてたまらなかったから、いつだって先生を目の前にすると忘れちゃうんだ。ここがどこだったのかも、自分がしてる行為も、先生にしてもらえることの全ても、全部が危ないことだってことすら忘れちゃうんだ。 「っ、っ」  先生のことだけは守らなくちゃいけない。  恋愛なんてしてないです。学校の先生と? 高校生の時に? ありえない。好きじゃない。ちっとも好きじゃないって。  言わないと、いけない。  なのに。 「っ……ゃ……だ」  ねぇ。  言いたくない。  そんなことはなかったって、なしにしたくない。  すごく好きだった。  ずっと先生のことだけ好きだった。  先生のことがたまらなく好きで仕方なかった。  笑ってもらえて、秘密って言って、お菓子をご褒美にもらったんだ。ラムレーズンの入ったクリームチーズ。それから、コーヒーだって。どんな高級豆のコーヒーよりも美味しいと思ったよ。  夏休みがあんなに楽しかったのはあの夏だけだったんだよ。  あんなに夏休みが終わってしまうのが惜しくて惜しくて、泣きそうなくらいに嫌だったのもあの夏だけだった。  背が低かった俺は先生に高いところにある物を取ってもらえるだけで、世界で一番幸せになれた。  先生に名前を呼んでもらえると嬉しくて。  先生が手伝いを頼んでくれたら、世界のどこにいても駆けつけるって思ったよ?  あの夏は俺の宝物なのに。  なかった、そんなもの、なんて言えない。  言いたく、ない。 「っ」  やっぱり、俺は、なんてワガママで悪い子なんだろう。  本当、地獄行きだ。  大好きなら守らないといけないのに。  大好きな人だけは助けないといけないのに、一緒にいたいって思ってる。それが地獄、でも。  そうだ。  俺がモデルを辞めちゃったら?  そしたらもう騒がれないでしょ?  そうだ、そうしたら、もう。 「……」  こんな嬉しそうに先生のことを思っておしゃべりしていた能天気な自分が憎らしいとさえ、思えた。  この写真ごと、この手でさ。  くしゃくしゃに――。 「いい写真だな、それ」  しちゃえば、いい。 「写真立てに入れて飾りたいくらい」  こんなの。 「……なんて顔してるんだ」 「…………ぇ、せん」 「志保」  あ。 「……」  ここ、大学だよ。  なんか、なんも見えなかった。視界がギュッと狭くなって、見えるのは手に握っていたスマホと、憎らしいくらいに幸せそうに笑う自分の写真だけ。  そう、電話、してた。  山本と。  今、山本が先生の学校に様子を見に行ってくれていて、それで俺はその山本からの電話を待つために、大学の中庭にいたんだ。 「大事なものなんじゃないのか? このプリント……すごいな、随分難しいことを勉強してるんだな」  ぶちまけたカバンの中から、風で飛ばされて遠くに落ちていたプリントを拾って、届けてくれた。  笑いながら。  ねぇ、ここ、大学だよ?  大学の中庭。 「電話、かけたりしてくれてたか?」 「……」 「すまない。色々あって、しばらく電源切ってたんだ」 「……」 「今日は平日だし」  大学、なのに、先生がいる。 「撮影ないだろ?」  先生がいて。 「少しドライブデート、しないか?」  俺に優しく笑ってる。

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