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第63話 一センチ平方メートル

 先生の車だ。  先生の車に乗せてもらうの、すごい好き。初デートはドライブだった。緊張しまくってたっけ。 「うん」しか言わないって笑われたんだよね。 「寒くなったな」  本当に、先生だ。 「大学の講義、大丈夫? じゃないか。悪いな」 「……ううん」 「サボらせて悪い教師だな、ってもう教師じゃないけど」 「! ね、ねぇっ、先生っ」  本当に?  ねぇ、本当に先生辞めたの? 俺のせいで。辞めさせられたの? 「知ってる?」 「……山本が先生の学校行って、くれて」 「山本、あぁ、あの大学の友達の?」 「そう、そいつ」 「そっか」 「……」  俺のせい、なんでしょ?  そんなことしないでいいよ。っていうかしないでよ。俺が、どうにかして先生のこと。 「……いつか辞めることになるだろうと思ってた」 「!」 「ずっと」  なんで、そんなこと。  いつから? ねぇ、それって、俺が先生と。 「志保」 「だって、全部、俺のせいでしょ? っていうか俺のせいじゃん。ねぇ、俺がいけないんだから先生が先生を辞めることなんてないじゃん。俺が、辞めるから、モデル、そしたら、ゴシップとかないし、騒がれないし」 「は? おまっ、モデル辞めたのか?」 「ちょっ、先生っ、前向いてっ危ないって! 辞めてないっ、今、まだ、辞めてないっ」 「なんだ……びっくりした」  びっくりしたの、俺の方だから。運転中によそ見なんて。 「そうじゃなくて、俺が辞めれば変な噂にならないじゃん。俺は別にいいから先生辞めないでよ、っていうか、なんで、先生が辞めんの? 辞めなきゃいけないようなことっ」  してないじゃんって、慌ててそう言った。  そしたら先生が突然、穏やかにでもとてもおかしそうに笑って、ハンドルをゆったりと握り直す。二人して辞めるだ辞めないだって、慌てて、なんかおかしいなって言って笑った。  その手に、指に、指輪がキラリと光った。  シルバーの、おもちゃの。ずっと先生がつけていてくれた指輪。  俺たちが離れてた間もしていてくれた、先生が俺のことを好きでいてくれた、「片想い」していてくれた印。  その印の指輪、していてくれたんだ。今、この状況でも。  本当さ、こういうところだよね。  俺の、ダメなところ。  どんな時でも、先生に好かれたいって思っちゃう。  先生に好かれてるって思うと嬉しいってなっちゃう。  そのせいで、先生は学校を辞めなくちゃいけなくなったのに。もしかしたら、きっと、学校で責められたり、嫌な視線に晒されたりしたはずなのに。好きな人をそんな目に遭わせるなんて、ダメなのに。  俺のこの好きがさ、なかったらよかったのに。  そしたら、先生に嫌なことさせなかった。学校辞めさせなくてよかった。  俺がいなければよかったのに。 「……なぁ、志保」 「?」  落ち着いた優しい声に、塞ぎ込んでいた思考の扉をトントンってノックされたみたい。ぐるぐると重くて冷たい考えだけが頭の中いっぱいに膨らんで、渦を巻くようにうねっていたのが、先生のその声で、ぴたりと止まった。 「志保の部屋、行ってもいいか?」 「もしかして、ごめっ、あの、もしかしなくても、うちに戻れてない? よね? そのパパラッチっていうか」 「いや、違うよ。ただ志保の部屋に行ってみたいだけ。それから」  ハンドルを片手で握りながら、先生が手を俺の方に伸ばして、鼻をぎゅって握った。びっくりして、肩をすくめると、また笑いながら。 「ごめんって言い過ぎだ」  だって、本当にごめんって思うことだらけ。  仕方ないじゃん。 「俺も、志保も、悪いことはしてないだろ」 「……」 「あ、してたか……教師と高校生で未成年は性交渉したらダメだもんな」  冗談なんて言ってる場合じゃないのに、それが原因で先生が教師を辞めなくちゃいけなくなったはずなのに、ちっとも悪気がないどころか。からかうように今日の先生は明るくて、どこか飄々としている。  まるで、あの初デートの時みたい。  そんな先生に、ついさっきまで嵐のような眩暈がおさまりそうもない混沌の中にいた俺は、戸惑うばかりだった。 「俺、駐車場契約とかしてないから、近くのパーキング」 「あぁ」  この辺なら大丈夫かな。まだ自宅マンションの近くっていうだけだから。カメラで待ち伏せしてるやつとかいるのかな。  どうしよう。また先生が責められる? そんなこと絶対に――。 「志保、どうだ、これ」 「!」 「とりあえず、変装」  深刻な状況、なんだけど。  先生のこと、もっと、マジで大変なことなんだけど。  なのに、先生は楽しそうに、メガネを取り出して、自慢気にそれをかけて見せてくれた。まるでハロウィンの仮装にそわそわする子どもみたいに。 「って、まぁ、メガネかけただけだけどな。ま、一般人だったらメガネかけた程度で顔の印象変わるだろ」  楽しい状況なんかじゃないはずなのに。 「俺が後でインターホン鳴らすから、志保」 「あ、うん」 「スパイみたいで、楽しいな」  今日の先生は、なんか、いつもよりも、楽しそう。 「志保」 「?」  車を降りようとした時だった。 「さっきから、ここ、眉間に皺、寄ってる」 「!」  言いながら、先生が指で眉間のところをぐりぐりと押した。その指先が温かった。触れ合えたのは、指先ひとつ分。きっと一センチ平方メートルくらい。 「難しい問題でも解いてる時みたいだぞ」  たったそれだけで触れ合えると嬉しくなった。ドキドキして、少しも減らない、それどころか増えるばかりだって実感する。  先生のこと、好きでたまらないって――。 「ほら、志保」  どうしても、離れたくないって、痛いくらいに思ってる。

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