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第64話 先生には最後で

 っていうか。 「……やば」  っていうかさ。  今きっと、すごく、めちゃくちゃシリアスなところに俺たちはいると思うんだ。  けど。  けど、それが吹っ飛ぶっていうか。 「えっとっ」  なんか、そんなシリアスな展開には不向きなくらい、部屋ん中、散らかってる。  いや、忙しかったし、そのゴシップとかでそんななんていうか、それどころじゃなかったっていうか、で、だから、あの。 「あ、ちょっ、マジっ」  慌ててウロウロしているうちに先生が教えてあげた部屋番号を押して、ピンポーンって、呑気な音が部屋の中に響き渡った。  いるし。  マンションのエントランスのとこにメガネかけた先生がいるし。いや、いるのは、わかってるんだけど。  俺、部屋、全然散らかってる。掃除もしてなくて、ゴミ屋敷、ってわけじゃないけどさ。でも、朝のまんまなんだ。脱いだ服がソファに置いてあるし。取材のアンケートとか、まだ書いてなくて、テーブルの上に広げっぱなしだし。 「は、はいっ、今、開ける、から」  あぁ、もう。 「とりあえず、アンケートっ!」  全部をガサっと集めて、そのままテキストとかが置いてある本棚に入れて、それから、着てた服は洗濯機に――。  ――ピンポーン。  二回目のチャイムはすぐそこ、玄関のとこ。 「は、はいっ」  早くドア開けたげないといけないのに。 「は、はいっ、はいはいっ、どうぞ」 「……お邪魔します」 「あの、全然、狭いんだ。ワンルームだし。だから、その」 「いや、急で悪いな」 「全然、座ってて。お茶、出すから」 「…………志保、靴下」 「? っ! あああっ!」  振り返って、先生が片方だけの靴下をどこからか見つけて、持ってた。  この前、洗った時、片方なくない? って思ってた、靴下。っていうか、どこにあったの? あぁ、もう、恥ずかしい。もっと、こう、先生のとこみたいに、ちゃんとしてたいのに。いや、普段はもう少しちゃんと……して……ないけど。あんまり。でもまだマシっていうかさ。最近、本当に忙しくて。平日は大学あるでしょ? それで課題とかなければ、先生のとこ行きたくて、課題があったら、課題を片付けるし。週末は撮影で一日いないし。  夜、掃除機すんの近所迷惑じゃん。  だから、できてないだけで、前はもう少しマシだったし。 「っ」 「っぷ」 「んもおっ! 仕方ないじゃんっ」 「いや、片付けとかじゃなくて」  じゃあ、何。しっかりしてないよ? そもそも俺ってすごくないし、完璧からは本当に程遠いんだ。 「やっと、いつもの志保だなぁって思っただけだ」 「……」  かっこ悪くて恥ずかしくて、俯いてた俺は、先生が楽しそうにそう言って笑ったから、顔を上げた。  そしたら、優しくくしゃっと顔を綻ばせて、先生がまた俺の鼻をぎゅって指で摘んだ。  ただそれだけ。  別に、今ある、先生が学校を辞めなくちゃならなかったっていう最悪のシチュエーションが終わったわけでもないし、その状況から脱したわけでもない。悪夢だった、って、目が覚めたわけでもない。全然、今、その真っ只中なのに。 「……うち、来たの、初めてだね」 「あぁ、そうだな」  まるで、魔法だ。  先生が笑って、いつもみたいに、俺に触れて、いつもみたいに俺をからかっただけで、気持ちが軽くなる。  最悪、じゃなくなってく気がする。 「あの、ねぇ……本当に……その、学校、辞めちゃったの?」 「あぁ」 「俺のせいだよね」  先生は笑顔のまま、口元だけ、答える代わりに結んだ。 「俺のせいでしょ? その、高校生だった頃に先生とって、今、掘り返されて、それで先生が……」 「最後だと思ってたから」 「……ぇ」  その単語は、好きじゃない。  最悪と同じくらい、俺にとって胸が痛くなるような響きにしか聞こえない。だから、その単語を先生が口にしただけで、胸のところが嫌な予感に締め付けられたように痛み始めて、息ができなくなりそう。 「志保としたのが、最後の恋って」  それって。 「あの時、高校生の志保を好きになってからずっと、そう思ってた」  どういう意味。 「もうこれ以上、好きになる相手はいないだろうから。だから、もしも、何かと志保、どっちかしか選べない時が来たら、志保を選ぼうと思ってた」 「……」 「ずっと、志保が高校一年生だったあの夏からずっと」 「……そんっ」  そんなのって。 「だから、学校もそうだよ。志保のことを諦めるのなら辞める、そう決めてた」 「でもっ」 「ずっと決めてた」  ねぇ。 「って言っても、バレないなら続けてたズルい大人だけどな」  俺、どうしよう。 「ただ、その逆はさせない、とも決めてた」 「?」 「志保が、俺と何かを選ばないといけないと悩んだら」 「俺はっ先生がっ」 「モデル、楽しいって言ってたろ?」  ―― 楽しい…………かな。 「続けな」 「!」 「俺はこの選択で幸せだから」 「けどっ」 「志保の、そのゴシップとかにはならないだろ? お前が所属している事務所の社長に電話で聞いた」 「え」 「それはならないって。ならこのままモデル続けられるだろ?」 「や」 「いいから」 「やだっ、だってそれじゃっ」  それじゃ、先生だけが苦しいじゃん。先生だけが辛いじゃん。そんなのやだよ。俺にとっての一番は先生なんだ。その一番が苦しいまんまなら、俺は何も取らないし、いらない。 「ズルい大人だって言っただろ?」 「……」 「ずっと前から、同じ大学の奴に日本語学校の講師しないかって誘われてたんだ」 「……ぇ」 「外国人に日本語を教える仕事」 「!」 「今回の件を踏まえて、それでも雇ってくれるって言ってもらえてる」 「そうなのっ?」 「あぁ」  じゃあ、これからも先生は先生? 「来月の頭から」 「すぐじゃん」 「ただ、場所が」 「地方、なの?」 「いや」  都心部、なんだって。通うのがちょっと大変かもしれないって。だから、そのうち引っ越すかもしれないって。 「それもあってずっと断ってたんだ」 「?」 「ここ、お前に出会えた高校にも近いし。ここに居座ってたら、いつか、志保と再会できるかもしれないだろ? って」  まるで、それは俺みたいで。 「けど、もう志保には出会えたから、引越ししてもいいかなって」  俺らはずっとそんなふうに、ずっとそんなふうに、両想いだったなんて。 「先生にとって、俺は最後?」 「あぁ、そうだよ」  即答してもらえるなんて。 「俺は、初めて、だよ」 「あぁ、そうだな」 「俺には先生が初めて、最初、で……俺にとっても、最後の恋だよ」  幸せで、たまらなく幸せで、溶けちゃいそうって、そう思った。

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