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第70話 めでたい気持ち
「ふぅ」
やっぱ、マスク苦手。
特に電車の中だとすごく息苦しく感じる。けど、今はちょっと外せないから、ずっと俯いたまま、マスクの中で口をギュッと結んでやり過ごしてた。
大学の最寄り駅で同じ年代の男女が一斉に降りていく中に紛れ込むように改札を通り抜けて、そのまま、いつもの講義室に。
今日って、講義パンパンに入ってるんだよね。
新しい学校の仕事、来月の頭って言ってたっけ。すぐだよね
でもそれまではたくさん一緒にいられるし。
あーあ、なんで今日に限って講義フルで入ってるかな。早く帰り――。
「相田っ!」
――たいな、って。
「大丈夫かっ?」
あーあ、早く帰りたいなぁって、思ってた。
「お前、その、落ち込んで今日来ないんじゃないかって、学校、あっちのな、そんなに大事件って感じじゃないみたいだったぞ。もう辞めちまってるけど、ほら、もう何年も前のことじゃん? 今更って感じだし。時効っつうか。あ、いや、別に犯罪、あー、いや犯罪ではあるのか。相手、高校生だもんな。って、ああああ、いや、責めてるわけじゃないから。俺、歳の差関係ない派っつうか、好きになんのに歳の差関係ないっつうか」
すげ。
「いや、だからっ! 俺は、全然ダメとか思ってねーから。そんで、あの、なんであんないい先生辞めさせるんだろって言ってたぞ、俺が聞いた子。あの子。二年生つってたなぁ。可愛かったなぁ。うん……まぁ……あんなピチピチ女子高が目を潤ませながら迫ってきちゃったら、俺も止められないっつうか」
山本が連打のごとく話してるのをぼんやりと眺めてた。
「だから。どんまいっつうか」
「……山本」
「おおっ」
「ごめ、ありがとう。あの」
「礼なんていいって」
「あの、じゃなくて、もう大丈夫」
「……へ?」
「昨日、ずっとその、先生といた」
「…………へええええええっ?」
「ちょっ、静かにっ」
それでなくても今の俺って、目立つんだから。
慌てて山本の頭を押さえつけると、慌てた顔の下半分を手のひらで押さえて、机にへばりつくように姿勢を低くした。
「何? はい? いたって、はい?」
「んー、学校は辞めたけど」
それは、やっぱ寂しいんだけど。
――それじゃあ、気をつけてな。マスク、ほら。あ、途中、一旦、買い物で外出るな。もちろん、俺もマスク付けとくよ。周りにも気をつける。ちょっとな。ここの駅前、でかい本屋あっただろ?
本屋さんに行きたいって嬉しそうに言ってた。今までは日本語で英語を教えてたけれど、今度は逆だからなって、すごく楽しそうに言ってた。
うん。
楽しそうだったんだ。
学校を辞めたけれど、逃げてどこかに行ったんじゃなくて。
新しい場所で、新しいことをしようとしてるんだって、思えたから。
「先生でいられる場所が」
別の場所、じゃない。違うところじゃなくて。
「次の場所にあったから」
うん。そんな感じ。
次の、一歩前に行ったみたいな。
「だから、まぁ」
「……」
「あ、けど、ごめん、悪い。昨日、電話切ったあと、それ連絡してなかった。けっこう、俺も頭ん中ぐるぐるしてたっていうか。でも、大丈夫って先生が話してくれて。あ、来てくれたんだ。ここに」
「はい? 大学にか?」
「うん」
「すげ」
「うん」
嬉しかった。来てくれたの。
「そっか」
「うん」
「なら、よかった。あ、そんでさ、その女子コーセーが言ってた」
「?」
――っていうか、それ何年前の話? って感じで、みんな言ってます。いい先生だし。かっこいいし。うちがSHIHOの出身校って有名な話だし、すっごい美少年って先輩の先輩? が言ってた。球技大会? の写真とか学校中に出回ってたし。先生がその担任っていうの、先生も言ってたから、この噂、捏造なんじゃん? って言ってる子もいます。
「だってさ」
そう、なんだ。
「本当にそうだとしても、学校で先生が誰かを特別扱いしてるのなんて見たことないです、言っていたよ」
そ、っか。
――だから、なんていうか、SHIHOにだけだったんじゃないかなぁって。なんか、高校生狙ってるキモい教師とかと全然違ってる、みたいな。みんなに親切で、熱心に教えてくれるいい先生です。普通に。だから、そんな噂立って悔しいし、辞めちゃったの、やだなぁって。
なら、よかった。
――みんな、言ってます。
「だってさ」
「うん」
「そんで?」
「?」
「平気なの? お前ら」
「ぁ……うん。それは、平気。その俺たちは」
「そっかああああ、はぁ……」
山本が大きな、大きな溜め息をひとつついた。
「ありがと」
「いや、よかったじゃん」
「うん。今日も大学終わった後、一緒に、いるし」
「おー、むしろ、よかったな。ほら、撮影全部いっつも週末じゃん? そのスケジュールにしててよかったじゃん」
「うん。けど、部屋すげぇ、散らかっててさ、それを篤樹さんに掃除してもらうのすげぇ、恥ずいけど、でも、まぁ」
「んもおおお、なんなのなんなの」
「?」
「あ、つ、き、さん?」
「! 違っ、これはっ、その」
「まぁもう先生ーじゃないもんなぁ」
「だからっ」
その時だった。
「!」
真っ暗だったスマホの画面が小さく振動して、メッセージが届いたことを知らせると同時、今朝の朝食の写真が画面に表示された。
――忘れた。晩飯、何にする?
そんなメッセージ。
なんでもいいよ。俺。
「うわぁ、すげぇ、幸せそうな顔」
「うるさい。幸せなんだよ」
「ぷほほほ」
先生と食べられるなら、俺、本当になんでもご馳走だからさ。けど、もしも、ワガママ言っていいのなら。
――手巻き寿司とかがいい。お祝い。
そう、メッセージを返信した。俺たちの、なんか、とにかく、お祝いがしたくてたまらなかったんだ。
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