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ちゃんと恋人編 4 ご機嫌は斜め

「全く……」  そう呟いて、篤樹さんが俺の方を見て、溜め息を一つ溢した。 「だって……」  それから、タクシーの後部座席ドア、ガラス窓の縁に肘を置いて、じっとこっちを見つめてる。  行ってみたかったイタリアンは行かなかった。篤樹さんがタクシーを捕まえて、それに乗り込んじゃったから。 「…………カフェに入ってろって言っただろ?」 「道が混んでたんだもん。それでちょうど着いたところで篤樹さんが出てきたから、で、あの生徒が後にくっついてて、つい……」  大きな声で篤樹さんの名前を呼んじゃった。その声に何人かは視線をこっちに向けてた。別に声に特徴があるわけじゃないから、あの一声でそこにSHIHOがいるって思う人は少ないだろうけど。  でも、ゼロとは限らない。  それに、あそこの駅に俺のポスター、あるから。  だからわかる人もいるかもしれない。なら大きな声なんて出しちゃ駄目だった。  あそこでSHIHOだってバレて、篤樹さんに迷惑がかかるのは、ダメだった。 「…………ごめんなさい」  勝手に身体が動いちゃったんだ。  だって、あの子、昔の俺だったから。小さくて、華奢で、女の子みたいで抱き締めたら折れちゃいそうじゃん。  昔の、先生が溺れてくれた時の俺。  時間は戻せないし、伸びちゃった身長も、骨っぽくなった身体も、骨格も、もうどうにもできない。  手だって、ほら――。  普段はそんなこと思わないよ。大事にしてもらってるし、その、愛されてるって実感しちゃうくらいに可愛がられてるって思う。  けど、それでも。 「まぁ、いいよ」 「!」  クスクス笑ってる。  俺は顔をパッと上げた。  もっと怒られると思ったのに、突然、楽しそうに笑ったりしてるから。 「ヤキモチは気持ちいいから」 「!」  そう言って笑って、もうあの頃とは全然違う、大人の男の手になっちゃった、俺の手を掴んでくれた。タクシーの運転手さんからは見えないところで、指を絡めて、繋ぎ止めくれた。  イタリアンは行けなかったけど、今日は篤樹さんがパスタを作ってくれた。きのこのクリームパスタ。サラダはシーフードサラダ。なんかちょっとごちそう。それを食べ終えて、まだ少し残ってるワインを飲みながら、余ったフランスパンを齧ってた。  あの子がクオーターの帰国子女の子なんだって。  日本語が全然ダメで一生懸命に今勉強してる最中なんだって。 「篤樹さんにだけ質問しに来るんでしょ?」 「そりゃ、先生だからな」 「そーじゃなくて、篤樹さんだから質問しに来るんだってば。ポイント稼ぎ」  確かに勉強熱心なのかもしれないけど、でも、それだけじゃない。ただ日本語を覚えたい熱心な生徒ってわけじゃないってば。  なのに、篤樹さんは呑気に、ああ見えて、今年成人式だったんだそうだ、なんて言ってるし。  ほんと、わかってないなぁ。  あの目は、恋をしてる目だった。 「そうかぁ?」 「そうだよ」  だって、あの目はよく知ってるからわかるんだ。  今日もレッスンの終わりに質問されてたって。今日もってことは、今回だけじゃなくて度々あるってこと。  多分、日本語を覚えたいのは本当なんだろうけど、ポイント稼ぎって部分のほうがけっこうあるんだよ。篤樹さん、そういうの一生懸命に頑張る子にちゃんと答えてくれるしさ。  それに、褒めてくれるじゃん。  そのやり方、身に覚えがあるからわかる。俺が実際に、それ、やってたもん。  偉いなって言われたくて。  良い子って思われたくて。  あんなふうに、あの生徒みたいに、一生懸命くっついてた。 「でもただの一生徒だよ」  そんな俺の胸のざわつきなんて気にもしないで篤樹さんが呑気に笑ってる。こっちは呑気になんてしてられないんだ。篤樹さんが全然その気なんてなくても、あの子はその気ありまくりなんだから。 「信用ない?」 「そういうことじゃなくてっ」  仕方ないよ。  触られたくない。他の人に篤樹さんのこと、ちょっとでも触られたら、我慢できない。  だから、ねぇ、笑ってる場合じゃないってば。  もう、なんで楽しそうにしてんの? それもまた、や、なんだけど。熱心な生徒なだけなんて呑気に笑って、なんか庇ってるし。 「……ご機嫌斜めだなぁ」 「もぉ、茶化さいでよっ。っていうかなんでそんなご機嫌っ」  むしろさ、なんでそんなにご機嫌なわけ? って言いたかったのに。  突然、篤樹さんが俺の鼻先をきゅっと指で摘んだ。  俺はその指先に、続きの言葉も摘まれたみたいに、話しが止まった。 「そりゃ、ご機嫌にもなるだろ」 「?」 「愛してる人にヤキモチ妬かれたんだから」 「!」 「レッスンの中で、まぁ、他の生徒にもよくプライベートなことは訊かれる」  そうなの? 「その度に、ちゃんと言ってるよ。恋人がいるって」 「……」 「教室で、嘘をつかずに、本当のことが言えるのが楽しいよ」 「……」 「以前なら、生徒に嘘、付かないといけなかったから」  学校には決して言えない、秘密の恋だったから。 「今は、恋人がいて、この前は、美味い和食の店に二人で出かけたって話せる」 「……」  すごいよね。  篤樹さんってさ。 「毎日ご機嫌だ」  貴方の言葉一つで世界が変わる。さっきまで胸がざわついて仕方なかったのに。 「志保」  ほら、今はもう。 「……ご機嫌なおったか?」  斜めどころか、最高の気分になっちゃうんだ。

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