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第31話 泣き笑いの心

 ソファの背もたれに頭を預ける保輔の目の上に護が濡れタオルを置いた。泣いて腫れた瞼を冷やしてあげていた。 「冷たくありませんか?」  護が保輔に問う。  相変わらず気遣いが半端なくて優しいと思う。 「大丈夫です、えろぉすんまへん。恥ずい姿をお見せしました」 「恥ずかしくなんか、ありませんよ。むしろ、もっとゆっくり感動の再会ができたら良かったのでしょうけど」  護の言葉に、保輔がビクリと肩を揺らした。 「これ以上は、本当に恥ずいさけ、やめてぇや……」    保輔の声が弱々しい。  本当に参っているというか、恥ずかしいのだろう。  隣に腰掛けた優士が微笑ましく保輔の姿を見守っている。 「いんや、人間味があって良いと思うぜ。お前が理研を潰したい動機も知れたしな」  清人の言葉に、保輔の体が強張ったように見えた。 「十年前、どうして行基が入滅したのか、誰がそう促したのか、お前が調べねぇはずねぇもんな。きっかけは、あの事件だったか? 英里さんの意志を継ぐ気だったのか?」  清人の核心を突いた質問に、保輔がぐっと唇を噛んだ。 「……本当は、理研となんか、二度と関わる気ぃはなかった。けど、英里が死んだって聞いて、色々調べてるうちに、このままじゃあかんと思ぅた」  ぽつりぽつりと語りだした保輔の言葉は、本音なんだと思った。 「俺が英里に育ててもろたんは、本当にガキん頃や。育てるいうても、毎日会ぅてたわけやない。時々、会いに来てくれる優しいお姉さんて感じや。今にして思えば、副所長がmasterpiece候補の状況確認に来とったのやろ。けど、子供心に唯一まともな大人に会えた気がしてたんよ」  保輔の言葉から感情が滲む。英里への信頼と敬慕を感じた。 「英里は保輔たちを守るつもりで会いに行っていたと思うよ」  優士の言葉に、保輔の指がびくりと跳ねた。 「保輔に会ってから、俺の中の英里の霊元から記憶が流れてくる。英里も色んなこと、想い出してるんだ。また会えて、嬉しいんだよ」  開きかけた保輔の口元が、キュッと結ぶ。 「あん頃、俺がもっと大人やったら、英里の本当の気持ち、知れたのやけどな」 「英里さんの本当の気持ちって、理研を潰したいって考えてたこと? それとも、自分の母親がしようとしてる計画を止めたかったってこと?」  紗月が俯きがちに問うた。その顔は曇っている。  英里と理研に関しては、紗月も他人事ではない。理研の職員だった紗月の父親は、集魂会襲撃の際のゴタゴタで死んでいる。  反魂儀呪の儀式の一件もある。自分が英里が死んだ原因の一つでもあると、紗月は考えているのだろう。 「自分の母親、好いてへんかったのは事実やろうけど。俺も英里が本当にやりたかったのが何かは、わからん。ただ、所長やった母親のやり方が気に入らんかったのは知っとる」  保輔が目の上に乗ったタオルをぎゅっと押し当てた。 「英里の本音がどうでも、理研は潰さなあかん。霊元移植室が消えたのに、今になって霊能開発室なんてもんを英里の姉貴が作りよった。益々、人を人と思わん組織になっていく。早ぅ手を打たな、俺みたいな人間が増えるだけや」  目の上にタオルをあてたまま、保輔が語る。  その声には、口惜しさが籠って聞こえた。  保輔の手を優士が握った。 「保輔、あまり自分を卑下しないようにね。そういう考えは、英里が悲しむよ。保輔にとって英里は、お姉さんというより母親みたいな存在だろう?」  タオルをずらして保輔がちらりと優士を窺う。  目が照れているように見える。どうやら正解らしい。   「何なら、俺のこと、お父さんて呼ぶかい? 構わないよ。ホラ、呼んでごらんよ」  優士が保輔に優しい圧をかけた。 「何やの? 初対面の他人やで? 俺も確かにアンタの胸で泣いたけど。それとこれとは別やで」  ずりずりと座っている場所から逃げようとする保輔を、握った手を引いて引き戻す。 「照れなくていいのに。慣れるまで練習していいよ。お父さんって、ホラ」 「嫌や! こん人、怖い。手ぇ、離してくれへん」  本気で怖がっているようにも見えるが、保輔も優士の手を離す気配がない。  手を振り解けばいいのになぁ、と直桜はぼんやり思った。きっと他の皆も同じように思ったに違いない。 「重ちゃん、やめてあげなよ。保輔はその手の冗談に乗っかれる感じの子じゃないよ。見かけによらずシャイだから」  見かねた紗月が注意した。  この中で優士に注意ができるのは、きっと紗月だけだ。 「だから、いいんじゃないか。呼ぶまで洗脳みたいに言い続けようかな」 「優しい鬼畜め。保輔、どっかのタイミングで呼ばないと、呼ぶまで囁き続けるよ、この鬼畜は」  紗月の忠告に、保輔が顔を蒼くしている。 「いつか、呼ぶ……呼びますのんで、今は、堪忍してください。さっき泣いたばっかりなんで、メンタルそこまで鋼やないねん」  今度は顔を赤くして優士をタオルで目を隠した端から眺めている。  そういう仕草はまだ子供だし、どうやらまんざらでもないらしいと、直桜は思った。 「話、戻すけどさ、いいか?」  清人が控えめに保輔に聞いた。  遠回しに優士に言っているのだろう。  保輔が激しく頷いている。 「元・所長の安倍晴子の意志は、現・所長の安倍千晴に引き継がれてるって考えていいな。なんで安倍親子はそんなに霊元の開発に拘るんだ?」  確かに不思議だなと思う。  呪禁師の家系である久我山家の娘である安倍晴子なら、術師には困らないだろう。反魂儀呪と繋がりを持っているなら、尚更だ。 「晴子と千晴には、霊能があらへん。つまり、霊元を持ってへんのや。呪禁師のエリート久我山家出身やからこそのコンプレックスや。しかも、英里だけは言霊師って久我山でも上位の術者やった。千晴は確実に英里《妹》へのコンプレックスが原動や。自分の手で誰よりも強い術者を生み出したいのや」  ぽかん、口が開いてしまった。 「それが、命を好き勝手して作り出す理由なんだ」  思わず呆れた呟きが零れた。  怒りを含んだ呆れは、とても乾いた声音で流れ出た。 「恐らく八張槐も、今の瀬田さんと同じ心境やと思うで。くだらんくて付き合いきれんのや。せやから、反魂儀呪は理研への協力に積極的にならへん」  槐と同じというのは受け入れ難いが、その心境は理解はできる。  直桜を片目で眺めながら、保輔が続けた。   「けどな、ない奴にとっては切実なんよ。許されへんことやし、俺もあの所長に腹は立つけど、その手のコンプレックスは理解できんねん。俺も持ってへん側の人間やからね」  どきりと、胸が曇った。  保輔から言わせれば、槐も直桜も「持っている側の人間」なのだろう。 「そういう考えはダメだって言ったばかりだよ、保輔。今すぐお父さんて呼びたいのかな?」  優士がニコリと笑んで保輔の手を強く握った。  まだ手を握ったままだったんだなと思った。  保輔が小さな声で「堪忍してや」と泣いている。 「それにね、今の言葉を借りるから、保輔は元々持っている側の人間なんだよ。そうだろ、瀬田君」  優士の目が直桜に向いた。  確信を帯びた目は、陽人の意志の代弁なのだと思った。 「保輔の中には、未開化の霊能が眠っている。それを開花させる必要があるんだ。どんな力か、俺にもまだわからない。本当は桜谷陽人が今日、確認するはずだったんだけどね」  メッセージを送った時は、今日中に会いたいとの返事だったが、どうにも忙しいらしい。 「桜ちゃんなら、秒で開花してくれるよ。痛くも痒くもないから、心配ないよ」  優士の言葉が胡散臭くて全く説得力がない。  保輔の視線が下がった。何かを考えている顔だ。 「六黒が言っとった。俺をblunderとしか評価できひんから、理研はその程度なんやって。俺の未開化の霊能は、そないに価値があるん?」 「反魂儀呪の八張槐が本気で欲しがる程度には、価値があるよ」  直桜の言葉に、保輔は表情を落とした。 「アンタらも、欲しいんやんな」  保輔の声はあまり明るいモノではない。 「本当は、保輔の意志を尊重してあげたい。今のままが良ければ何もしない。けどもし、本気で瑞悠とパートナーになる気があるんなら、開花は必須になる。今の保輔では、惟神のパートナーにはなれないから」  保輔がタオルを外して首を起こした。 「なんで俺なん? 霊能の開花以前に、俺が瑞悠のパートナーになるの前提みたいに話すんは、おかしいやろ」 「保輔は速秋津姫神に会ったよね? 惟神の神は番と認めた相手でなければ容易に姿を見せたりしない。初見で姿を見るなんて、有り得ないんだ。実は俺も驚いてるんだよ」 「……は?」  保輔の目が大きく見開いた。 「しかも半分、予言みたいなもんなんだよ。神様が気に入ると、大体くっ付く。番でなくても姿を見せてくれる場合も、たまにはあるんだけどね。惟神同士とか守人とか眷族とかね」  紗月の説明に護が続ける。 「智颯君の神様の気吹戸主神が円くんに姿を見せてくれたのは、つい最近だそうです。出会って半年以上は経過しています。本当はそれくらい、時間が掛かるんですよ。私も直日神に会うまで二カ月くらいかかりました」 「それでも早い方だったよね」  直桜と護の話に、清人が首を捻った。 「紗月は早かったけど、俺たちの場合、十年のタイムラグがあるからな」 「私らはイレギュラーでしょ。私ら自身が」 「ま、そうね」  清人と紗月が二人の間で完結する話をしている。  しかし、十年という単語に、保輔の表情がびくりと固まった。 「自分の価値、理解できたかい? 保輔は神様が初見で気に入るレベルの能力者だってことだよ」  優士の言葉にも、保輔は巧く返事ができないでいた。 「どうしても保輔にその気がないなら、無理しなくていいよ。瑞悠のパートナーも、能力の開花もね。俺から陽人に話しておくから。本当は一度会って、どんな能力か確認だけでもしてほしいんだけど」 「桜ちゃんの場合、確認したらセットで開花もしちゃいそうだからね」  直桜が濁した部分を優士が悪びれもせずに話した。  保輔の顔色がどんどん悪くなる。 「……急に、そない言われても。だったら俺のこの十七年は何やったの? 失敗作やガラクタや言われて生きてきたのやで。悪いことも、ようさんした。神様に好かれる人間と、ちゃぅ」  保輔の目が潤む。  震える手を、優士の手が握っていた。 「13課は、俺たちは保輔をblunderともbugとも、masterpieceとも呼ばない。保輔は、伊吹保輔だ。悪いことしたと思うなら、ウチで働いて返してくれたらいいよ。ウチには神様がいっぱいいるから、番になったくらいで特別扱いはしないけどね」  直桜の言葉に、保輔が顔を上げた。 「きっと13課組対室は、保輔が保輔らしくいられる場所になる。そういう場所に、自分でこれからしていくんだよ。やり直しはいくらでもできる。俺も現在進行形でやり直し中だよ」  握った手を持ち挙げて、優士が保輔に微笑み掛けた。  反魂儀呪に利用されて13課に戻ってきた優士の経緯も、保輔は知っているのだろう。  保輔の目が涙で溢れた。 「そないな、英里みたいな顔で言われたら、頷くしかないやん。俺もう、他に行く場所なんか、ないのやで」 「じゃぁ、ウチで貰っていいね。俺は割と、保輔を気に入ってるんだ」  優士と直桜を交互に視て、保輔が困った顔で笑った。 「ここは、人誑しの集まりや。こないに口説かれたら、逃げられへん」  泣き笑いの顔は、ようやく心を少しだけ溶かしてくれたように思えた。

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