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第3話
「本……すごいな」
「なんの、貸本にござっせえ」
続き間もない部屋なので、孤蝶は屏風の向こうで打ち掛けを常着に着替えはじめる。
辰は、本をのかして窓縁に座りなおすと、懐に入れていた草履を、桟の上に置いた。
「なんで客じゃネェと分かったい?」
「……素見というわりに、お前さんが見ていなンしたのが、色じゃアなかったもんで気になってね。見れば……おいらんと目が会えば愛想笑うが、熱心に見聞してるのは、階段やら入口やら屋根上やら、建物ばかり……遊びなれてはいないようで、いっそ妓楼でも買いにきなさったお大尽かと?」
「あちゃあ……お見通しか」
「大丈夫。それでも、コウまで長く居なんしなんだら。だあれも気づきはしまっせえ」
「……そりゃ、こんな時間までお茶挽いてるおいらんが、いなけりゃあってことかい?」
「おや、負けないね」
「いやいや、感謝してる。すまねえな。おいらん」
「すまなくなんかないよ。夕べも一昨日もお茶挽いちまって、こちとら、この三日というもの夕飯にありつけてないんだ……実のトコひもじくて仕方がない」
「オイオイ、大丈夫かよ」
「大丈夫だよ。今日、オマエさんが登楼ってくれたからね。さてと。これでぐっと楽になった。そうそう、喜の字屋の紙、何処に置いたやら……ああ、あったあった」
着替えを終えて屏風の陰から出てきた孤蝶は、ごそごそと部屋中をあさり、ようやく軍記物の六冊も重なった下から、うっすらと埃にまみれた台の物の品書きを引きずり出してきた。
「台の物、アチキが頼んでも構わねえでおスな? コウ、と。金平牛房(こんぴらごぼう)、照鰯荒(てりごまめ)、小肴骨煮附(こざかなあらにつけ)、蒲鉾、河茸(かわたけ)、漬蕨(つけわらび)、かれい煮付、新生姜丼蕗焼(しんしょうがふりやき)、辛螺(にしさざえ)……」
「……お前、細っこいのによく食うな……」
懐の中で銭入れの重さを量りながら、辰が苦笑する。
遊女は普段、夕食を取れない。
お客が取った夕食の相伴をするか、茶屋で客が残した料理を包んでもらって、それを食べるのが常だ。
客もそれを心得て、ほとんど料理に手をつけずにすますのだが……。
「なんの、そちらさんの分も頼んでござっせえ」
「普通逆だろう……」
「……木之芽槽(きのめあへ)、吸物、結残魚(むすびぎす)、鯛麺葛掛(あんかけ)……それから」
「オット、悪いが手持ちはそこまでだ
「つけときやンす。明日の晩にも、また来てくれなんし」
「色ッ気のねェ口説きだなあ、オイ」
「色ッ気の無いのはお客人でござっせえよ。初会っからおいらんの布団に上がったってのに、とっとと自分で降りちまッて、眺めてるのも座敷でのぞけた大根じゃなく大門だってんだから、こうでもなきゃあ馬鹿らしくって……」
「すまねえなア、孤蝶サンよ」
窓の外を向いたまま、辰がポツリと謝った。
「きっとナ。また来るよ」
「……だから、すまなくなんかないんだよ」
喜の字屋の品書きに書き付けて、孤蝶がぽんぽんと手を叩く。
「アチキの勝手で上げたんだから。気にしないでおっせイ。それに……」
「アイ、おいらん、呼ばれ申した」
間もなく、襖の向こうで、先ほどの禿の声が答えた。
孤蝶は襖の隙間から、書きつけた注文を渡す。
「そんならこれ、持ってっとくれ。そしたら、もう寝ていいからね」
「アイ」
禿はお辞儀を一つすると、とンと襖を閉めた。
「……それに、今日、用がすまなんだら、辰さん、また来なっサろウ?」
「辰でいいヨ。くすぐってえ」
「じゃあアチキも孤蝶と呼ばわっ……」
「……ッ!」
ガラガラっと、割れ物の音がして、孤蝶が片付けていた硯から顔を上げた時には、すでに辰の尻っぱしょりが、窓の外に消えていくところだった。
先ほど畳の上に置かれた財布が、窓枠の草履ごと取り残されている。
窓から草履を投げ渡してやろうと孤蝶は立ち上がったが、すでに眼下に、辰の姿は無かった。
「懐に入れてまで持って来てたってのに……」
孤蝶は呆れ顔で、窓枠の草履をつまみ上げる。
「けったいな野郎だぜ 」
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