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第5話:アップルパイと指の味
「腹……減った……」
部活が終わり、すきっ腹を抱えて、俺はよろよろとバス停に向かって歩いていた。
学校からは、最寄り駅まで行って電車で帰るやつが多いが、俺の家は、ちょっと歩いたところにあるバス停から乗れば、一本で家まで行けるのだ。
そして、そのバス停の近くに、塁さんと冬真がやっている、カフェ「Louis Louis 」はある。
近くを通ると、タルト生地の焼ける、甘い香りが漂って来た。
正直、しょっちゅう寄っていたら財布がもたない。しかし、部活終わりのすきっ腹に、この香りは効きすぎる。
俺はふらふらと誘われるように、「Louis Louis」に入ってしまった。
「いらっしゃいませ」
メガネを外し、前髪を後ろになでつけた、ウェイタースタイルの冬真が出迎えた。
「アップルパイ、ください……」
店のドアを開けた瞬間、空腹に甘い香りがどっと入ってきて、意識が飛びそうになりながら、一番ボリュームがありそうなアップルパイを注文した。
──腹減った……。眠い……。
「ご一緒にコーヒーはいかがですか」
「俺、コーヒー飲めないから」
冬真がいつもどおり勧めてくる。お決まりのセリフなんだろうが、俺はお金もないし、苦いコーヒーは飲めないので断ると、
「俺のコーヒーは苦くないしおいしいのに」
となおも勧めてきた。
「いい……金ない……」
空腹のあまり虚ろな声で正直すぎる返事をして、席にどさっと座る。
念願の、塁さんのアップルパイが運ばれ、口に運ぼうとすると、ふわっとしたいい香りとともに、目の前にコーヒーカップが置かれた。
「飲んでみて」
冬真が目の前の席に座っていた。
「俺が淹れてるんだぞ」
ひょっとしておごりなのかな。じゃあ飲んでみるか。
……。
「……おいしい」
全然苦くなかった。
ドリンクバーやコンビニのコーヒーみたいに、苦くないし、土っぽい匂いもしない。
甘酸っぱくてコクのあるアップルパイの後味が、口の中でコーヒーと溶け合って体内に流れていく。
香りも全然違う。
俺は狂ったようにアップルパイ、コーヒー、アップルパイ、コーヒー、と繰り返し食べ続け、あっという間にアップルパイもコーヒーも、俺の腹の中に消えてしまった。
「はわわ……。もうなくなっちゃったじゃないか……」
こんな悲しい出来事があるだろうか。
「ははっ、喜んでもらえたみたいでよかった」
冬真がテーブルに肘をついてこちらを見ながら笑っている。
「おいしかった……。おかわりしたかった……」
俺がそう言うと、冬真は、
「まだここにちょっとあるぞ」
と言って、俺の唇の脇に指を伸ばして何かぬぐいとった。
アップルパイのかけらがついている。
もったいない。俺は反射的に口を開けてしまった。
「ほら」
俺の口に入って来た冬真の人差し指についたアップルパイを、俺は舐めとった。
冬真の人差し指のひんやりした感触が舌先から伝わってくる。
その瞬間、なぜかズキっと胸の奥に衝撃が走った。
──もしかして、俺、まずいことしたかも……?
と血の気が引いたが、手遅れだった。
冬真の指は、そのまま大人しく出ていかず、俺の口の中で前歯や舌を軽くなぞった。
──!!
ひんやりした冬真の指先が、俺の口内の熱で温まっていくのがわかる。
冬真は、濡れたような瞳で俺をじっとりと見つめながら、前歯の裏側に軽く指をひっかけたり、クイクイと俺の舌先をなぞったりしている。
「ひゃ、ひゃめぉおう……」
「やめろ」と言ったつもりだが、舌も歯も動かせないので、意味不明になってしまった。
しかし言いたいことは一応伝わったようで、冬真はフッと笑って指を引き抜いた。
冬真は俺の口の中から抜いた人差し指をじっと見つめ、そして俺に流し目を送りながら、その指をぺろりと舐めた。
「うわわ……」
俺は思わず声を上げた。
「や、やめろよう……。ばっちいだろ……」
なんだこれ、恥ずかしすぎて死にそうだ。
「朔太はかわいいなあ」
冬真はなぜか嬉しそうにくすくすと笑っている。
「か、帰るっ」
俺は伝票をつかんで立ち上がった。
「お会計、950円になりまーす」
「コーヒー代も取るのかよっ」
あの流れは、絶対おごりだと思うだろ。
「おいしかっただろ?」
レジの向こう側で冬真がニヤッと笑っている。
ま、まあ確かに無課金で飲ませてもらっていいような味ではなかった。
「デートか、俺の家に来れば、タダで淹れてやるよ」
仕方なく払うと、冬真はそう言ってくすくす笑った。
餌付けはされないぞ! と思ったが、もうすでに十分餌付けされてしまったような気がする。
カフェを出て、店の中を振り返ると、まだ冬真がこちらを見て、軽く手を振って来た。
無視するのも悪いので、俺も手を振り返す。
──なんだ、なんだこれ……。
俺は謎の敗北感とドキドキに包まれながら帰宅した。
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