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この先の季節も君と1

「紫陽花の花言葉って移り気っていうのが有名ですが、一途な愛情という花言葉もあるんですよ。俺、遊びとかちゃらんぽらんな気持ちじゃありませんから。真剣なんです。だから、ゆっくりでいいから考えて下さい」  紫陽花を見て来た日から毎日この言葉が頭から離れることはなかった。  確かに薬井さんは何度も好きです、という言葉を言っていた。それを友情の、またはファンとしての好きだと思っていたのは俺だ。いや、単にそう思い込もうとしていたのかもしれない。  その日は俺も薬井さんも言葉少なに帰ってきた。俺はいきなり聞いたから答えなんて出せてないし、薬井さんもそれはわかっていたからそれ以上はなにも言わず、ただ車を降りるときにいつものように「また」と言って別れた。そしてその日から、薬井さんが言った言葉が頭の中でぐるぐる回っているのだ。  どう返事をしたらいいんだろう。すぐにではないにしても答えは出さないといけない。  俺は薬井さんのことをどう見ていたのだろう。それは友人としてだ。いや、それはほんとだろうか。絶対に違うと言い切れるだろうか。  俺の人見知りも気にせず(少なくとも俺はそう思っていた)メッセージを送ってきてくれていたので、友人という立ち位置にはなっていた。  付き合いやすく、一緒にいて楽な友人。それ以上でもなくそれ以下でもない。それはとても楽なポジションだったのだ。いや、そう思いたかったのだ。  でも、ほんとだろうか。薬井さんにとって俺は好意を寄せる相手だったのだ。薬井さんにとってはきつい状態だったろうと思う。  薬井さんが俺を好きだと言った。それを知って俺はどう感じただろうか。  同性に好きだと好意を寄せられて、少なくとも嫌悪感はなかった。気持ち悪いとは思っていない。でも、だからと言って好きと思っているのとは違うと思う。”気持ち悪い”の反対語は決して”好き”ではないのだ。  では、俺にとっての”気持ち悪い”の反対語はなんだろうか。それについての答えは出ていない。当然だ。今までそんなことを考えたことはないのだから。いや、考えないようにしていたのだ。だからわからない。  好きという感情はなんだろう。友情のそれと恋愛感情のそれとはどう違うのだろうか。薬井さんはどうして俺のことを好きだと思ったのだろう。いつ俺を好きだと思ったのだろう。それは聞いていない。  俺はどうだろう。と自問自答してみる。  可愛いなと思ったことならある。花が咲くように笑ったときだ。その笑顔は可愛かったし、この先も見ていたいと思った。そして、そんな可愛さを持ちながらも時には男らしくて、そのギャップにドキリとしたことはある。  薬井さんの画集を見たときから、怖いくらいに引き込まれていたからか、薬井さんという人間に興味はあった。  それは画家としての薬井さんだと思っていたし、今でもそれは変わらない。ただ、初対面のとき、どこか興味を惹かれるところがあったのは否定しない。それがあったから、あまり親しくないのに薔薇園へ一緒に行くことを嫌だと思わなかったのだろう。  そのときの俺がわかっていたことは、緊張感は伴うけれどまた会ってみたいと思っていたことだ。  薬井さんの笑顔は引き込まれるものがある。その笑顔をもっと見たいと思った。その気持ちはなんと呼べばいいのだろうか。それがわからなくて俺は、画家として、友人として、と半ば強引にそう思っていたのだ。でも、実際はどうなのだろうか。それが俺にはわからないのだ。

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