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気分転換に商店街へ出向いた日を機に、アイルの調子は戻りつつあった。きちんと食事も摂るようになって、最近では真面目にウォーレンの授業を受けたりなんかもしている。
きっと、落ち込んでいても仕方がないと悟ったのだろう。事実、アイルがどれだけ真剣にリースに体を返してあげたいと願ったところで、現実はどうにもならない。だったらせめて、リースから譲り受けたその大半の人生を、アイルはくよくよせず前向きに生きるべきだ。そうでなければ、あまりにもリースが報われない。
「よしっ、できたー!」
ぼうっとベッドに腰掛けて物思いに耽っていたところ、耳に入ったアイルの声にはっとした。
夕食前の空き時間、フィルは大抵、意味もなくアイルに呼ばれてリースの部屋で寛がせてもらっている。他愛ない話をしたり、フィルそっちのけでお絵かきをしたりと自由奔放なアイルだが、今日は後者のパターンだった。何をしているのかはわからないがずっと真剣に机に向き合っていて、数時間経った今になってようやく席を立ってこちらへと歩み寄ってくる。
ぽすんとフィルの隣へと腰を下ろすなり、アイルは上目遣いに声を発した。
「ねえねえフィル、おてて出して?」
「……手、ですか?」
首を傾げつつ、フィルはアイルへと右手を差し出す。アイルはにこにこと笑いながら、その手首へと紐のようなものを巻きつけてきゅっと結んだ。
「……これは?」
色とりどりの刺繍糸で編まれた手首の紐を見て、フィルは尋ねた。
「お守りだよ! フィルにあげる!」
「お守り……」
どうやらこの紐は、手作りのブレスレットだったらしい。そういえばこの間、外出していろいろな店を回った際に、アイルは手芸店で何本かの刺繍糸を購入していた。
「とてもお上手に作られておりますが、私なんかがいただいてもよろしいのですか?」
と言っても、もう固く手首に結びつけられているので、ハサミでも使わない限り取り外せそうにはないのだが。
「うん、あげる! でも、絶対に自分で切ったりしちゃだめだよ! 約束だよ!」
目を見て訴えてくるアイルに、フィルはふっと笑みを零す。
「ありがとうございます、アイル様。もちろん、アイル様にいただいたものを切ったりなどいたしません。大切にいたします」
ところどころ編み方を間違えたのかくちゃくちゃになっているのが何ともいじらしい。クオリティでいえば到底ブレスレットなどと呼べたものではないが、いつの日か描いてもらった狼の絵同様、フィルは手首に巻かれたそのお守りに深い愛着を覚えた。
浅い笑みを零し、そっとお守りに触れる。白く可憐な指先で、一本一本、一生懸命に編み込まれた刺繍糸。スピリチュアル的なことなど一切信じないフィルでも、それには何か特別な力が宿っているような気がした。
こつんと。肩に寄りかかった重みに、フィルはそちらへと視線を向ける。
「アイル様……」
数時間ずっと集中してお守りを作っていたせいか、アイルはフィルに体重を預けてそっと瞼を閉じていた。
眠っているわけではないのだろう。ただ静かに寄り添ってくるその体温に、さざなみのような感情が沸き上がる。
そろそろとお守りの結ばれた手を移動させ、青白く血管の透けるアイルの手の甲に触れた。ピクリと震えたのは、触れられたアイルではなくフィル本人の指先だ。
息を止め、フィルは逡巡する。リースとアイルの名が、交互に浮かんでは消える。
ふっと思考が留まったのは、数日前に見たアイルの涙を思い出したときだった。
リースに体を返してあげたい。自分なんか生まれてきてはいけなかった。悲痛に告げられた言葉を思い出し、そっとアイルの手を包み込む。
手首に垂れ下がる慣れないブレスレットの感覚に、目を瞑って思いを馳せた。
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