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春
千景は大学4年に進級した。卒業に向けて看護研究と国家試験のための勉強が本格的になり、その間で就職についても考えなければならなかった。母が亡くなり1人になった寂しさと、冬馬への思いを紛らわせてくれる日々の忙しさが、今の千景にはありがたかった。
そんな多忙な毎日の中で一息ついた瞬間に思う。
(冬馬さんに会いたい……)
(でも今は頑張らないと……)
一度頭の中に浮かんでくると、冬馬への思いがとめどなく溢れてくる。コップの縁でギリギリ溢れずに保っている水のような自分の感情が一気に流れ出しそうで、千景は慌てて心のコップに蓋をする。
(あと1年……)
千景はぐっと全身に力を込め、唇を噛んだ。
♢♢♢
大学を卒業し、無事に国家試験も合格した千景は、晴れて4月から看護師としての新しい生活が始まった。
配属先が決まり、新たに覚えなければならないことが山ほどあって、元来真面目で勉強好きな千景でさえも、泣き言を言いたくなるような日々が続いた。
それでも、母のことを思い、自分なりに看護師として頑張っていこうと千景は決めている。
5月になったある日、患者をリハビリ室へ案内することになった。リハビリ室へ行くのは初めてである。千景は突然不安に襲われ、心臓の鼓動が早くなる。緊張で手が震え足がすくみ、千景が押す車いすに座っている患者に心配されるほどだった。
リハビリ室のドアが開き、受付カウンターへ向かう。カウンターに座っている理学療法士はパソコンで作業をしていたが、患者が来たことに気付きふと顔を上げる。
「リハビリに来た患者さんです、よろしくお願いします」
患者の車いすを押す看護師の顔を見て、その場に立ちすくみ固まる冬馬。この時の冬馬の姿を千景は一生忘れないだろう。
(冬馬さん、覚えてくれていたんだな……やっと会えた)
2人、見つめ合ったまま無言の時が過ぎる。
「……先生、大丈夫?」
患者が、言葉を発しない冬馬を怪訝そうな顔で見ながら言う。
「あっ、すみません……。理学療法士の高槻冬馬です。よろしくお願いします」
冬馬は車いすに座った患者へ笑顔を向ける。
「外科病棟に配属された小嶋千景です。よろしくお願いします」
新人としてのいつもの挨拶をして、車いすを手から離す。千景は、いつもより少し声が震えていた。
「よろしくお願いします。リハビリは1時間くらいで終わります。終わったら病棟に連絡するのでお迎えをお願いします」
冬馬は目を潤ませながら涙声で言った後、そっと千景の耳元に顔を寄せ、
「後で話をしよう、千景くん」
と囁いた。
それは、千景が「マスカレード」で何度も聞いた、冬馬の穏やかで優しい声だった。
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