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7-6 同じ存りかたをするものたち
「でね」
国親は俺たちの様子を確認してから、説明を続ける。
「この負の感情が、どこにも向かなかったとする。誰も悪くないのに家族が死ぬ、好きな人に嫌われる、ひもじい、嫌がらせされる。もうこの世は嫌なことでいっぱいで、それを誰にぶつけていいかわからない。そういうときだって、ちゃんとこの負の感情はこうして存在しているわけ。この都のそこらじゅうに、ふわふわ漂ってると思ってもらったらいいかな」
人型を離れて、札がひと固まりになる。その巨大な負の感情はどうなるのだろう。不安になっていると、「そうなんだよね」と国親が言う。
「負の感情が満ちてくると、影響を受けてみんなの間にどんよりした空気が起こって、ますます負の感情が生まれやすくなる。世の中がとても息苦しくて、嫌になっちゃう。そうしてどんどん、特に何か特別なことがあったわけでもないのに、みんな良い感情を持てなくなっていく。こういう時にね、この世に強い恨みを持ったまま死んだ動物や人がいるとね、その霊魂とこれがくっついちゃったりするんだよね」
「強い恨み……ですか……」
心光は己の胸に手を当てて呟く。きっと何かよくないことを考えているのだろう。今度は俺が彼の手を握ってやると、心光もまた困ったように微笑んだ。
「まぁ、つまりその負の感情の塊っていうのかな。それが怨霊。でも彼らは本来、実態も無いし単体では何もできない。だから、人の不安や恨みを煽って唆し、身体を乗っ取って操ったりしながら、自分の恨みを晴らしたりする。心光君の影もたぶんそうだね。ただ、僕は感心してるんだ」
「感心、ですか……?」
首を傾げた心光に、国親は頷いて言った。
「うん。君は確かに、一時的に恨みに囚われて怨霊を受け入れてしまった。だけど、君はどうしてもこの世を恨みきれなくて、影に完全に乗っ取られはしなかった。魂の境界がどれほど曖昧になってもね。そうでなければ、君は目についた人誰でも殺していてもおかしくないし、ましてや蘇芳君とこうして一緒に都まで来ることもなかったんじゃないかな」
確かに。俺はこれまでのことを思い出す。
心光は、罪がある者だけを殺めようとしていた。最初の家は盗人で、次は野盗、そして人を呪うとされる陰陽師、自分を捨てた母親──。もっとも、彼らのことだって心光が殺めたかったかといえば、そうではないだろうが。しかし国親の言う通り、心光の意思がそこにないのなら、出会った者たちを片っ端から殺して血を喰らっても良かったはずだ。
それに。まだ右も左もわからない俺を拾い、一緒に旅をし。身体を重ねようとしたことも。
心光は目を伏せてから、静かに呟いた。
「あの日……。わたくしは宿陽を殺められた怒りと絶望から、影に身体を明け渡し……宿陽を害した村人を、この手にかけてしまいました……。しかし、生きる者のいなくなった時、わたくしは思い出したのです。彼らを殺し、その血を啜ったところで、宿陽は帰って来ない……そんな当たり前のことを……」
「心光……」
心光はぎゅっと手を握り、小さく。しかし、しっかりとした意思を持って、続ける。
「わたくしが多くの命を殺めた罪は、消えることはありません。ですが、影の好きにもさせてなるものかと、あの日覚悟を決めたのです。無辜の民の命を奪わせない、その為にもわたくしは、彼と魂をひとつにしながらも生き続けました。いつか、この影を祓うかた、あるいは──わたくしを殺め、止めてくれるかたを探して……」
「……それが、私であり、蘇芳君だった、ってことでいいかな?」
国親の言葉に、俺は目を丸めた。心光はそんな俺を申し訳なさそうに見つめて、それからまた目を伏せる。
「蘇芳、あなたを生かし、共にあったのは影の意思でも、わたくしの意思でもありました。影はわたくしを精神的に追い詰め、完全に身体を乗っ取るためあらゆる嫌がらせをしていたし……。わたくしは、影を止めてくれるのはもう、都の陰陽師か……人ではない存在、つまり……鬼のあなたではないかと、考えたのです」
「それは、だが、心光。それは──」
「はい。わたくしは、あなたに殺めてもらおうとしていたのです……」
俺は言葉を失ってしまった。
そういえば、初めて身を繋げたあの日。心光は俺に縋った。
『蘇芳、お願いです、お願いです。きっと、鬼であるあなたならば、きっと、わたくしを……っ』
あれは、つまり。
殺してほしい、と言いかけたのか。それを、影に阻止されてしまったのか。
それでは、俺が今までしてきたことは……狼狽えていると、心光は「蘇芳」と首を振る。
「今は、少し考えも変わりました。これまで辛い思いをしながらも、善き人であり続けたあなたに、わたくしを殺めるような責を負わせたくない。もしも、国親様や皆さまの知恵でなんとかできるのなら、そちらのほうがいいと思っています」
「心光……」
善き人、というなら彼だって十分そうだろう。こんな状況にあって、俺に人殺しになってほしくないと願うのだから。しかし天は、仏は心光を許すのだろうか。人は、心光自身は心光を許せるのだろうか。そればかりは、俺にすらわからなかった。
ただ、ぎゅっと心光の手を握る。ここまで連れ添った以上、彼を見捨てるつもりにはなれない。どんな結末が待っているのであれ、俺は最後まで彼のそばにいて、俺にできることがあるのなら彼にしてやりたいと思った。
だが。一体何をすればよいのだろうか。
「なるほど、心光君の気持ちが確認できて良かったよ。なら、私もなんとかして色んな可能性を探ってみるとするね」
国親は明るい笑顔を浮かべて言う。その飄々とした態度の裏で、彼はこれまでどんな無理難題を請け負い、解決してきたのだろうか。定かではないけれど、そうでなければ都の人々からこうまで信頼されていないと思う。
俺も「お願いします」と頭を下げると、国親は「そういうのいいからね」と軽く笑った。
「なんていうか、君たち、本当に似た者同士なんだよね。あの影も含めて。あーでも私も含まれちゃうか」
国親が溜息を漏らす。俺たちが首を傾げると、国親はひとつの人型にまた札を集めていく。
「負の感情って言ってたけど、もちろん正の感情だってこうやって集まってくるんだよ。きっとうまくいく、そうに違いない、できるに決まっている。信じる気持ちは疑う気持ちと同じように、集まって希望となるのさ。そうして君たちは怪異の姿に近づいたり、人に近づいたりを繰り返していた。だからね、最後にものをいうのは、信じる強い心。人に、自分に心から信じられれば、人は本当にそうなっていくものなのさ」
「そういう、ものでございますか?」
「そうだよ。だって私もそうだろう?」
国親は自分を指差して笑った。
「偉大なる安倍家の陰陽師ならば、きっとどんな怪異も祓い、手懐け、世に平穏をもたらしてくれる。きっと安倍家は神仏の加護を受けている、超人的な能力を持っているに違いない──。都のみなさまがそう信じてくれるから、ただの人間である私は本当に優れた陰陽師でいられるのさ」
だからね。
国親はにっかりと笑顔を浮かべて言った。
「君たちも、私を信じておくれ。きっと私が、私たちが、心光君と蘇芳君の全てをまあるく解決してくれるってね。私も、そうできると信じる。君たちも、互いに善き人であり、自分たちが救われるとよく信じることさ」
その先にしか、やれることはないからね。一緒に頑張ろうね。
国親の言葉に、俺と心光は視線を交わし、それから互いに握る手に力を込めた。
きっと、きっと、俺たちは、救われる。
そう信じるしかなかった。
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