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3 海戸:着ぐるみを買った日

「海戸って警備員でしょ」 「そうなんだよ!」  ホームのはしはだれもいなくて、つい声が大きくなった。 「あくまでおれは警備員で」 「子守をしたいわけじゃないと」 「そのとおり!」  照路は「ふーん」と頷いて、鼻歌を口ずさむ。むかしなじみのCMソングだ。  その食品会社の開館した美術館が、おれの職場だ。といっても、実際に運営しているのは下請けで、そこに雇われているのだ。 「でもだれもやりたがらないし、けっきょくおれが」  「遠足の子どもたちの誘導?」 「美術館にいるあいだのな」 「クマの着ぐるみ着て?」 「着ぐるみ、クマの」 「かわいい」 「かわいいけど恥ずかしいよな、クマ」 「海戸がかわいい」  耳が熱くなった。その熱が全身に行き渡って、長袖シャツが暑苦しい。 「外でそういうこと言うな」  アナウンスが鳴った。フロントガラスに空を映しながら、電車がとまった。中はだれもいなかった。それにほっとした自分がいやで、胸がきゅっとなった。 並んで座った。あの日のことを思いだした。 「席、ゆずれなかった」 「どうしたの?」 「六年前の話」 「二一歳?」 「せいかい」照路の靴の横を、おれは小さく蹴った。「上京して、乗った電車が混んでて、なんとか座れたんだけど、目の前に子どもが立ってたんだ。その子に席ゆずれなかった」 「そういうのってあるよ」  「でも失望した、自分に」  車窓の、ビルや家屋は流れていくのに、氷を薄く張ったような空だけは、ずっとそこにある。 「がんばるしかないね、今度の仕事」 「どうして」 「うーん」照路は腕を組んだ。「ツミホロボシかな」 「子どもへの?」 「ううん」腕をとく。「自分への」  しだいに電車は混んでいった。座席はうまって、立っている人もいた。  ターミナル駅に着いた。ドアが開いて、せきを切ったように乗客が流れ出た。その流れはべつの流れにぶつかって、入り乱れ、たくさんの頭が太い川になって、前へ前へ流れていく。通路に足音がざあざあとたちこめて、照路のつぶやきがかき消えた。彼が振り返っておれを見て、とまりかけたおれは、押されて流されて、あわてて首をめぐらすと、視野をうめたのは、無数の顔だった。息ができなかった。 (あとで電話すればいいよな)  必死にそう考えて流されていく。  ――外に出たって、何も変わらないよ。  妹の言葉がよぎった。  波の光、葉の光、陽ざし、たくさんの光がのしかかる。生まれ育った島だ。高校を卒業して、フェリーの整備士をしていた。 「何も変えたくないから外に行くんだ」  おれが答えると、妹は砂を蹴った。砂浜を一緒に歩いていた。  仲のいい家族だった。ケンカしても、メシの時間にはみんな食卓にいる、そんな家だった。結婚するつもりはないとか、男が好きだとか、そんな本当のことよりも、ただ家族には、そのままでいてほしいと思った。だから、島を出ることに決めた。 「あっちに好きな子でもいるの?」   「いないよ」  「出会えるよ、きっと」 「そうだと、いいな」  足をとめた。舌打ちの音がして、通路のすみに逃げた。人波が押し寄せた。足音や話し声が崖崩れのように迫る。壁までたどり着けず、肩がぶつかった。息をとめた。顔を見ないように頭を下げて、一歩、一歩、歩いていく。人が飛び出してきて、よけた。円い柱にあたった。汗があふれ出た。女が男の名を呼んだ。英語が飛び交った。男子高校生たちが走っていく。そして、人波がとだえた。黄色い駅看板の下に、見覚えのあるひたいがあった。遠くを見ている。  緊張で冷たくなった喉に、無理やり息を送った。 「てるじ!」  今朝整えたばかりの眉を上げて、彼は笑った。  ⁂ 「()いててよかったね」照路がクマの頭をひざに載せた。  帰りの車両には、七、八人しか乗っていなかった。  おれは、胴体と靴の入った袋を足のあいだに挟んだ。  窓枠に、陽ざしが伸びている。そのなかで、薄氷(はくひょう)()がれた空が青々としている。 「見つかってよかった」  ほかの乗客がおりてから、おれは言った。目星をつけていた店で着ぐるみを買ったのだ。もちろん経費だ。 「そういえば、なんでクマなの?」 「子どもたちは、くーまくんの原画展を見にくるからな」 「くーまくん?」 「小山リエっていう人の絵本で、くーまくんっていう子グマが、森で迷子になって、知らない町に着いて、最初はそこの動物たちに怖がられるんだけど、そのうち仲よくなって、自分の夢を見つけて、でも、さがしにきたくーまママ、くーまパパとケンカして、っていう笑いあり涙ありの絵本。おれが好きなのは、〝くーまくん あの場所へ向かう〟と〝くーまくん 薬草をさがして〟と〝くーまくん 最高の日をまえに〟だな。もちろん全部いいんだけどさ」 「海戸、楽しみなの?」 「もちろん!」手で口をふさいだ。しまった。「……一応読んだんだよ。おれ、絵本とか全然読んだことないし」 「読むならどれがいい?」 「最初っから! ……読んでも……読まなくても……」 「二人で本みにいくのもいいよな~」  そう言って、照路が肩に寄りかかった。「だれかが乗るまで」  彼の髪は、少し冷たくて、やわらかくて、地肌からは汗の乾いたにおいがしていた。おれはそのなかに、頬をもぐりこませていく。いやなこと、かなしいことがあると、くーまくんは低木に体をつっこんでいた。なぜかそのシーンが好きだった。かなしいのに、好きだった。  トンネルに入った。おれたちの影が一つになって、窓に映る。あと、照路の抱いているクマの頭も。 「おりたら持つよ、頭」 「恥ずかしくない?」 「恥ずかしい」  あの駅で、照路は部屋の鍵を落としたのだ。その鍵はいま、おれのポッケにしまってある。  陽がさした。  アナウンスが鳴る。  ――もう少し、もう少しこのまま。  そう願いながら、照路の髪のなかで、息をする。  おわり

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