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4 照路:クマ芝居にあった日

 傘いっぱいに、雨粒が跳ねている。ビルの光がゆるんで溶けて、なんだか眠くなる。青い光がさした。信号を渡り、傘を閉じて駅に入った。  ――本田さんのこと、好きです。  この前の飲み会で告白された。断ると、好きな人がいるのかと聞かれ、恋人がいると答えた。    肩をすぼめて、つり革を握った。うつむく会社員たちが、夜の車窓に並んでいる。  ⁂ 「気持ちよかった?」 「うん。そっちは……いいの?」 「大丈夫」海戸がベッドに座った。  カーテンの閉めきった部屋で、彼の白い腕が浮いていた。おれはズボンをはいた。  アプリで会って間もないころだ。二週間に一度、海戸にヌいてもらっていた。  夏のはじめで、雨が降っていた。傘立てにあった一本の傘を、借りた。――折畳みあるから、大丈夫。外は、温気を破くような雨音だった。雨粒で傘が重い。地面が雨の跳ね返りで煙っている。坂をくだっていくと、ちんこに残る舌の感触が、強まった。少し、()ってしまった。  雨に、電車の光が広がる。視線を前に戻すと、反対ホームの階段に海戸がいた。びしょ濡れだった。彼がこちらを振り向く瞬間、電車が割りこんだ。湿気(しけ)た肌に冷房が刺さる。座席から見ても、曇った車窓では見つけられなかった。 「貸さなくてよかったのに」 「その……」海戸の眉が寄った。「折畳み、見つからなくて」  嘘だろうなと思いながら、アイマスクをした。海戸の出した条件だった。――シテみたい。そうおれが頼んだのだ。 「すぐ準備する」 「何の?」 「女装……」  「化粧も?」 「……一応」 「目隠しはずしたい」 「ダメだ」 「意味ないじゃん」 「念のためだから……」  壁に背中を預け、ベッドで待つ。冷房の音のなかに、化粧品の音がしている。彼女がいたころはよく聞いた音だ。――つまんない。最後のセックスのあと、彼女にそう言われた。肩にさわると、水のように離れていった。衣擦(きぬず)れの音がする。――人間なんてみんな醜くて、しょうもないのに。  ベッドが沈んだ。闇のなか、呼吸が忍び寄る。伸ばした手が、冷たい手のひらに覆われた。 「おれが全部やる」  海戸が宣言した。おれは指をきつく握った。  ベルトがはずされた。長い髪が股に流れ落ちた。いつもと同じで、子どもをなだめるような丁寧なフェラだった。彼女もそうだった。腰から伸ばした足先へ、力が入っていく。――本田くんはやさしくて、クラスでも人気ものなんです。髪が離れた。固いちんこが冷房にさらされた。袋を破く音がして、海戸が、帽子のようにゴムをかぶせた。部屋の音が遠くなった。暗闇が深くなる。赤いランプがまわりだす。細い泣き声が聞こえてくる。  ――逃げろ。  床が鳴った。友達が闇に吸いこまれた。懐中電灯がその背中を照らすと、おれは必死で追いかけた。廃墟に、足音が鳴り渡る。体が冷たかった。後ろの懐中電灯が目の前の景色――割れたガラス窓、木板の散乱した手洗い場、夜露死苦と書かれた掲示板を照らしては、暗闇に戻った。階段をおりている感覚よりも、ただ足を上下している感覚だけが残っていく。前進できていない。そんな気がした。  廃校舎を出た。パトカーが来ていた。先頭の子に追いついた。けれど、懐中電灯を持っていた子はいなかった。  小学生のころの、肝試しの思い出だ。その日からずっと、赤いランプがまぶたに張りついていた。転んで取り残された子の細い泣き声が、鼓膜にこびりついていた。  腕を握った。払われた。もう一度、握った。 「どうしたんだよ」海戸が言った。「ダメだって!」  制止を振りきって、アイマスクを()ぎ取った。デスクライトで、海戸が照らされていた。安っぽいメイド服を着ていた。下手くそな化粧をしていた。ウィッグがずれていた。吐きだすように笑った。笑っているのか、泣いているのか、わからないほど、笑った。 「……だからダメだって言ったんだ」 「おれのこと好きなの?」  海戸はあぐらの上でもじもじ手を組んでいる。しばらくして、頷いた。 「どうして?」 「……かっこいいから」 「中学生みたいな理由だね」  海戸は赤面し、そっぽを向いた。「……性格わる」 「これでも人からは好かれるんだ」  海戸の眉が寄った。「こっちは高いのにメイク道具と服買って、しかもきのう言われたからあわてて店で買ったんだ。すげえ勇気がいったんだぞ」 「かわいいよ」 「笑っただろ」 「かわいいから笑ったんだ」  また海戸の眉が寄った。言葉を吟味しているらしい。 「いや、ぜったいバカにした」 「ほんとは何歳なの?」 「二三」 「おれ、二一」  きょう一番眉が寄って、笑いがこみ上げる。何か言おうとする海戸の手を引いた。ジャマくさいウィッグを捨てて、耳元で言った。 「いじめていい?」  ネットをかぶった不格好な年上は、笑えないくらいかわいく、頷いた。  ⁂  浅丘、と駅名が聞こえて、飛びおりた。眠っていた。明かりと肌寒さに起こされながら、階段をおり、荷物を確かめた。リュック、スマホ、財布はあった。コンビニで買ったばかりの傘は、座席に忘れてしまった。  改札を出た。たくさんの仮装でにぎわっている。美大のハロウィンイベントの帰りらしい。  玉ねぎの被り物をした男の横で、スマホを見た。――きょう傘もってないよな? とメッセージがあった。屋根の先では、水溜まりが雨に打たれている。文字を打とうとして、肩を叩かれた。  クマが立っていた。ビニール袋に足をつっこんで、雨靴にしている。 クマが傘を差しだした。 「なんでその格好?」  クマが手を広げ、周りの仮装を示した。傘を受け取ると、クマの傘がなくなった。 「もう一本ないの?」  頭をかくクマ。  「けっこう気に入った? その着ぐるみ」  両手で頬を押さえるクマ。 「遠足どうだった?」  親指を立てるクマ。  つやつやした鼻を撫でてやると、クマが美術館のほうを指さした。着ぐるみを返さないとらしい。傘を広げた。雨音に包まれる。頭の大きい、もふもふした恋人と、街灯の輝く丘をのぼっていく。  ふと気づく。  海戸とはじめての、相合傘だ。  おわり

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