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4 照路:言うなればクマ芝居ってやつだよね
傘いっぱいに、雨粒が跳ねている。ビルの光がゆるんで、溶けて、なんだか眠くなる。青い光がさした。信号を渡り、傘を閉じて駅に入った。
――本田さんのこと、好きです。
この前の飲み会で、告白された。断ると、好きな人がいるのかと聞かれ、恋人がいると答えた。
肩をすぼめて、つり革を握った。スマホを見て、うつむく会社員たちが、夜の窓にずらりと並んでいる。
☆
「気持ちよかった?」
「ああ。そっちは……いいの?」
「大丈夫」海戸 がベッドに座った。カーテンの閉めきった部屋で、白い腕が浮いていた。
おれはズボンを履き、ベルトをしめた。
アプリで会って間もないころだ。そのころ二週間に一度、海戸にヌいてもらっていた。海戸は服を脱ぐことも、イくこともなかった。
夏のはじめで、雨が降っていた。傘立てに、一本傘がささっていて、それを借りた。――折畳みあるから、大丈夫。
外は温気 を破くような雨音で、地面は雨の跳ね返りで煙っていた。ビニール傘の骨が一本折れていた。雨で、傘が重たかった。坂をくだるとき、ペニスに残る舌の感触が、歩幅に合わせて強くなった。少し、勃 ってしまった。
しばらく待ったあと、電車の音が響いてくる。視線を前に戻すと、反対ホームの階段に海戸がいた。びしょ濡れだった。彼がこちらを振り向く間際、電車に割りこまれた。湿気 た肌に冷房が刺さる。座席から見ても、くもった車窓では、見つけられなかった。
「貸さなくてよかったのに」
「その……」うつむいた海戸の眉に力が入った。「折畳み、見つからなくて」
嘘だろうな、と思いながら、おれはアイマスクをした。海戸の出した条件だった。――シテみたい。そうおれが頼んだのだ。
「準備する」
「なんの準備?」
「女装」
「してくれるんだ」
「うん」
「化粧も?」
「……一応」
「目隠しはずしたい」
「ダメだ」
「意味ないじゃん」
「万が一見られたときのためだから」
壁に背中を預け、ベッドで待つ。冷房の音がしていた。近くのローテーブルから、化粧品の、カタカタという音がしていた。――つまんない。別れる前の、彼女との最後のセックスのあと、そう言われた。肩にふれようとすると、水のようにはなれていった。衣 ずれの音がする。――人間なんて、みんな醜くて、しょうもないのに。
ベッドが沈んだ。闇のなか、呼吸が忍び寄ってくる。伸ばした手が、手のひらに覆われて、独立したその指の絡まりに、背中がうずく。
「嫌われたくない。だから、声も出さないし、さわらせない。おれが全部やる」
その宣言にいらついて、海戸の指をきつく握ってしまう。
ベルトが外された。ごわごわしたもの、おそらく髪が、股に流れ落ちる。いつもと同じで、子どもをなだめるような丁寧なフェラだった。彼女もそんなふうだった。腰から、伸ばした足先へ、力が入っていく。張り詰める筋肉で、全身が軋 んでいく。――本田くんはやさしくて、クラスでもみんなの人気ものなんです。髪が動いて、唇がはなれた。ペニスが、冷房の冷たさでさらに敏感になる。ゴムの袋を破く音がした。指のぬくもりで撫でられる。いらだちのぶんだけ固くなっていく。帽子のように、ゴムがかぶせられる。壁に押し潰されるような嫌悪が、こごっていく。部屋の音が遠くなった。暗闇が深くなる。その奥で、赤いランプがまわりだす。細い泣き声が聞こえてくる。
――逃げろ。
床が鳴って、友達の背中が、闇に吸いこまれようとしていた。追って流れた懐中電灯が、その背中を照らすと、おれは必死で追いかけた。廃墟に、高い足音が乱れ渡る。皮膚が溶けそうなほど、体が冷たかった。後ろの懐中電灯が、目の前の景色――割れたガラス窓・木板の散乱した手洗い場・夜露死苦と書かれた掲示板を照らしては、暗闇に戻って、階段をおりる感覚よりも、ただ、足を上下している感覚だけが残っていく。夢のなかにいるような、前進できていないような、そんな気がした。廃校舎を出た。パトカーが来ていた。先頭の子に追いついた。けれど、懐中電灯を持っていた子はいなかった。
小学校のころの、肝試しの思い出だ。その日からずっと、赤いランプがまぶたに張りついていた。校舎から聞こえた細い泣き声が、鼓膜にこびりついていた。
腕を、握った。――本田くんはやさしくて、クラスでもみんなの人気ものなんです。海戸に手を払われた。――いつも笑ってて、やさしくて、そんな先輩が好きです。ひびが入っていく。――つまんない。人間なんて、みんな醜くて、しょうもないのに。
もう一度、きつく握った。
「どうしたんだよ」海戸が言った。アイマスクを剥ぎ取ろうとして、とめられた。「ダメだって」
手を押しのけた。デスクライトで、海戸が照らされていた。安っぽいメイド服を着ていた。下手くそな化粧をしていた。ウィッグがずれていた。腹の底から笑ってしまった。笑っているのか、泣いているのか、わからないほど、笑った。
「……だからダメだって言ったんだ」
「おれのこと、好きなの?」
黙りこんだ海戸は、あぐらのあいだで、もじもじと手を組んでいる。しばらくしてから頷いた。
「どうして?」
「……かっこいいから」
「中学生みたいな理由だね」
赤面し、海戸はそっぽを向いた。「……性格わる」
「これでも人からは好 かれるんだ」
海戸の眉が寄った。「こっちは、高いのにメイク道具と服買って、しかもきのう言われたから、あわてて店で買ったんだ。すげえ勇気がいったんだぞ」
「かわいいよ」
「笑っただろ」
「かわいいから笑ったんだ」
海戸の眉が寄った。言葉を吟味しているらしい。
「いや、ぜったいバカにした」
「ほんとは何歳なの?」
「二三」
「おれ、二一」
きょういちばん眉が寄って、笑いがこみ上げる。何か言おうとする海戸の手を引いた。ジャマくさいウィッグを捨てて、耳もとに言った。
「いじめていい?」
ネットをかぶった不格好な年上は、笑えないくらいかわいく頷いた。
☆
浅丘、と聞いて、飛びおりた。眠っていた。駅の明かりと肌寒さに起こされながら、階段をおり、荷物を確認した。リュック・スマホ・財布はあって、コンビニで買ったばかりの傘はなかった。座席に忘れてしまった。
改札を出ると、たくさんの仮装でにぎわっていた。美大のハロウィンイベントの帰りらしい。アイスのかぶりものをした人の横で、スマホを見ると、〝きょう傘もってないよな?〟とメッセージがあった。屋根の先では、水溜まりが雨に打たれている。文字を打とうとして、肩を叩かれた。
クマが立っていた。ぐいっと傘をさしだしてくる。
「なんでその格好?」
クマが手を広げて、周りの仮装を示した。傘を受け取ると、クマの傘がなくなった。
「もう一本ないの?」
頭をかくクマ。
「けっこう気に入った? その着ぐるみ」
両手で頬を押さえるクマ。
「遠足、どうだった?」
親指を立てるクマ。
ツヤツヤした鼻を撫でてやると、クマが美術館の方角を指さした。着ぐるみを返さないとらしい。腕を上げ、傘を広げた。雨音に包まれる。頭の大きい、もふもふした恋人と、街灯の輝く丘をのぼっていく。
ふと気づく。
海戸とはじめての、相合傘だ。
おわり
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