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7 海戸:秋のこども芸術祭の日

 擁壁(ようへき)の水抜き穴に、たわしが詰まっていた。妙に棘の先が白い。なんだかハリネズミに似ている。  しゃがんで観察していると、裏口のドアが開いた。 「山野くん、あの着ぐるみ、大活躍じゃない」  吉見さんが缶コーヒーを差しだした。着ぐるみを着る日は、彼女や土田さんがおごってくれるのだ。  お礼を言って飲むと、冷たい鼻にコーヒーの香りが抜けていった。 「この前はすみませんでした」 「どうせわたしと土田さんだけだったし、何よりハロウィンだし。着ぐるみ着て、雨のなか散歩に行きたい気持ちも、――わからないわ」  吉見さんが笑った。  彼女の髪留めが光って、ドアが閉まった。ひとりになる。擁壁の上には、叩くと音のしそうな青空と、赤茶けた茂みがある。  もう一度、水抜き穴に視線を落とした。 (照路なら確認するかな)  彼はきょう、仕事が休みで家にいる。  立ち上がり、足踏みをした。茂みの向こうで、だれかの背中がかすめていった。  ⁂  着ぐるみを着て、中庭に面した出入口に立つと、子どもたちの声があがった。さがすと、尻に衝突してきた。と同時に、腹や横腹にもぶつかってきた。 「クマだ」「クマね」「なんでクマ?」「子ども受けじゃね」「中にいるのっておじさんでしょ」「え~」「え~」「きつそ〜」  この程度では動じない。  くーまくんがリュックからハチミツキャンディを取り出すように、ちょっとぎこちなく、風船をつまみとる。 「風船だ」「風船ね」「なんで風船?」「安いからじゃね」「ぜんぶ渡さないとクビになるんだよ」「セチガライね」「な~」「な~」「セチガライって何?」「おじさん、もらうね」「仕事がんばってな」「応援してる」「セチガライって何?」  企画でつくったらしいブンブンゼミをまわしながら、生意気な子どもたちは、風船をひきずって去っていった。  季節はずれのセミの声が遠ざかった。  きょうは秋のこども芸術祭だ。二階では、この日に合わせた展示と、くーまくんの原画展をしている。三階では、参加型の企画をしていて、そろそろデジタルアートがはじまるため、ガラス壁のなかでは、受付の吉見さんたちが忙しくしている。おれの仕事は、正面入口が混雑しないようバリアラインで誘導した客を、中庭から帰すことだ。  自動ドアが開いた。網目状の視界に、姉弟(きょうだい)らしい子どもたちの笑顔が飛びこんだ。くーまくんになりきって、おれは風船を二個みつくろった。  ⁂ 「大事なのは信じること」  ワイシャツにアイロンをかけながら、照路が言った。 「営業でも同じ。とにかく、売りたい商品をいいものだって心から信じてないと、相手には伝わらない」 「ベテランみたいだな」  おれがからかうと、照路は目を細め、唇の片端を持ち上げた。人を小バカにしたような、笑い慣れていないような、そんな笑い方だ。外ではしない。外ではいつも、傷のないつるつるした笑顔をする。  照路は、ボルトやナットなんかを扱う会社の営業をしている。 「海戸も信じるんだよ。着ぐるみを着たら、おれはあの大好きなくーまくんだって」 「大好きとは言ってない」 「くーまくんの大好物は」 「ノイチゴクッキー」 「いつも持ち歩くのは」 「ハチミツキャンディとロケットペンダント」 「口ぐせは」 「〝あしたからがんばろう〟」 「ほら、好きじゃん」 「クマが鮭をしょって来たな」 「え」 「何が正解かがわかる。つまり照路も読んでいたという証拠だ!」  きつく畳んだボクサーを投球すると、照路は捕球し、シャツの上に置いた。アイロンを再開する。 「スマホで調べたんだよ」 「いつ」 「海戸が電車で寝てるあいだ」 「……口あいてた?」 「すこし」 「……これからは起こせよ」 「了解。あ、そういえば」 「なんだ」 「さっきの(かも)(ねぎ)をしょって来るって、ニュアンスがちがうような」 「国語得意だった?」 「理系科目なら。海戸は?」 「おれは……、英語が……、少々」 「塩は英語で」 「……Shio」  照路の笑顔が大きくなった。おれは咳ばらいして、ハンガーの靴下を引っこ抜いた。ベランダいち面に陽ざしが広がって、野焼きのような香ばしいにおいがする。風が陽ざしと皮膚のあいだにすべりこんで、涼しい。振り返ると、午前中買った着ぐるみの頭が、テーブルからおれを見ていた。けっきょく交代で抱えながら帰ったのだ。 「調べたんだな、くーまくん」 「うん」 「おもしろそうだろ」 「このあと図書館で読んでくる」 「そこまでしなくていい」  照路のかかげたワイシャツが、光をすかしてひるがえる。  おれを見上げ、彼はあの笑い方をした。 「一緒に行く?」  答えは決まっている。  その答えを聞くと、照路のいじわるな笑顔は、大きくなって、はじけて散って、割れた鏡のように、いくつもの光を、おれに見せた。  ⁂  テントの脚をしまって、へたりこんだ。息を吐く。中庭のほうからは、指示をしながら片づけに(いそ)しむ吉見さんの声がしている。  腕が痛い。 (おれも筋トレはじめようかな)   茜色にやわらかくなった空を、ウェアを着た二人組が過ぎていく。擁壁の上は公園の遊歩道なのだ。家からスーパーへの近道でもある。赤茶けた茂みは、夜の色に近づいている。 「おーい、山野。三階行くぞー。元気だせ、元気」  物置から出てきた土田さんが、陽に焼けた笑顔で裏口に入った。  あの生意気な子どもたちに教えてやりたい。ここの先輩たちは、おれなんかよりずっと元気で、仕事ができるのだ。  手をついて、起き上がった。そのとき、たわしが消えた。  いや、水抜き穴の奥にもぐっていったのだ。 「早く来い!」 「はい!」  踊り場の窓から注意され、ドアノブを握る。  ――からかわれるだろうけど。でも。  ドアを開ける。  ――帰ったら、話してみよう。  おわり

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