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第六章
そして綜真は語り始めた。六年前、詩緒との出逢いと別れを。
詩緒は大学内でも有名な首席合格の優等生だった。それに引き換え綜真は浪人の上留年を重ね、同じ四年生でありながらも年齢は綜真が三歳歳上だった。就職も決まらず、腐っていた綜真は自然な流れでそういう人間らと連む事が多くなり、酒、女、煙草やりたい放題、自堕落に過ごしてした。
その内の一人がある日新しい遊びを思い付いた。
――鼻持ちならない優等生である榊詩緒を落とす事が出来るか。
綜真はその賭けに乗る事にした。何よりただ暇だったのだ。個人的な恨み等一欠片もそこには存在しておらず、『ただ暇だから』という理由だけで綜真は詩緒にアプローチを始めた。
詩緒に近付く事は苦では無かった。当時の詩緒は口の悪さは今と変わらず、首席という立場からも一目置かれ、友達と呼べるよう者も存在していなかった。
口の悪さにだけ目を瞑れば詩緒は比較的容易に他者を受け入れた。綜真は自らが詩緒の理解者であるかのように振る舞い、詩緒との距離を縮めていった。
「え、ゲスじゃね? 賭けって」
そこまで話した時、思わず真香は呟いた。その後でようやく真香はこういった役割をさせる為に四條は自分をここに残したのだと理解をした。
「それで、付き合ったと?」
「まあ……」
四條からの問いに対し、歯切れの悪い返答だった。
綜真が敢えて語らなかった紆余曲折は存在していたが、結果的に詩緒と綜真の二人はそれから間も無く付き合う事になった。詩緒の口の悪さは相変わらずだったが、元々折り込み済みだった綜真は詩緒を上手く宥めすかしながら二人にとっては平穏といえる時間が過ぎていった。
確かに付き合ってはいたがそれは成り行きに近いところもあり、どちらかが付き合って欲しいと求めた訳では無かった。二人で居る事がいつの間にか空気の様に自然になっていただけで、ロマンチックな愛の言葉も無い二人の関係はほんの少しの亀裂で簡単に瓦解してしまった。
「……詩緒に、賭けの事をバラした奴が居た」
「自業自得じゃん」
真香の一言にぐうの音も出ない綜真は閉口した。騙し続けていたのは綜真で、それは隠しようのない事実だった。いつか話さなければいけないと思っていながらもその時の平穏に縋りたくてまたいつかと先延ばしにしていたのも綜真だった。
もし詩緒が綜真本人の口からその事実を聞いたのならば、また違う結果だったのかもしれない。第三者から伝えられる事実というものはただでさえ繊細な詩緒の心を破壊するのには十分過ぎた。
「それで別れただけでは、最近の榊の態度は納得出来んわ」
賭けの対象とされていた事に憤り、大喧嘩の末別れたとしたら何故今になって綜真が目の前に現れただけで詩緒はあのような反応を示すのか。殴って終われない程詩緒の心に大きな傷を残す何かがあった筈だと四條は綜真を問い詰める。
綜真の手がビールの入ったグラスへ伸びる。真香は咄嗟に身を伸ばして綜真の手首を掴む。下戸の綜真が一口でも酒を飲む事で上手くいけばこの先の話から逃れられるかもしれないと考えた目論みはあっさりと封じられた。
「…………別れなかった、そん時は。だけど俺らはもう付き合ってるなんて言える関係じゃ無くなってた」
今の詩緒からでも容易に想像がつく。嘘を吐かれていたと知った詩緒は怒り心頭のまま最大の言葉で綜真を詰り続けた。勿論綜真もただ誹りを受け入れるだけではなく冷静に話し合いたいと何度も詩緒を諭した。
「俺の気持ちも何もかも、全部頭ごなしに否定されてさ……あれは、ははっ、かなりキツかったわ」
「まあ榊も頑固だしね。始まりが御嵩さんのゲスだったんだし」
「ああ、頑固だよなぁ……俺の言葉なんか全ッ然聞いてねえし、俺だってもうアイツが何叫んでんのかも分かんなくなってたわ」
綜真はグラスから手を離す。その手で自らの顔を覆い隠しこれ以上は話したくないと言うかのように喉元まで込み上がる言葉を必死に飲み込もうとした。
「……殴ってた、詩緒の事」
「ああ、成程」
ようやく合点がいったというように四條は一度綜真から視線を外す。そこから先何が起こったのかは綜真が話さずとも四條も真香も容易に想像がついた。
自分の手では大切な誰かを傷付ける事しか出来ないとあの頃の綜真はそれがショックだったが、本当は気にすべき事はそこでは無かった。第一に殴られた詩緒の心の痛みを理解しなければならなかった筈なのに、綜真にはそれが出来なかった。三歳年下の詩緒を子供だからと罵った事もあったが、一番子供だったのは他でも無く綜真自身だった。
一人きりだった詩緒の手を取って外へと連れ出したのに、無惨にもその手を離して再び詩緒を暗闇へ置き去りにしたのは綜真自身の罪だった。
――ガキが。
その言葉は綜真が詩緒に放った言葉だったか、綜真が誰かから言われた言葉だったか、それすらも綜真には分からなくなっていた。ただ綜真に目覚める切っ掛けを与えてくれる存在があった。詩緒と離れて、詩緒ではない人物から切っ掛けを与えられて、あの時の詩緒に何て言葉を掛ける事が正解だったのか、綜真はずっと考え続けていた。
「やけど自分、初日に榊の事恫喝しとったやろ」
「あーあれね、俺んとこにも聞こえて驚いたー」
「あれは……俺も驚いたんだよ。まさか詩緒が居るなんて思わないだろ」
ずっと詩緒に伝えたい言葉が綜真にはあった。全く言葉を伝えられなかったあの頃、一言でも伝える事が出来たならばあの様な最悪な道を|詩《・》|緒《・》|が《・》選ぶ事は無かったのだろう。
「俺さあ、思うんだけどー」
酔いの眠気が覚めた斎がいつの間にか座布団の上で身を反転させて綜真を見ていた。
「斎、起きてたんだ」
「真香も見てるから分かると思うんだけどさ。榊の感情あそこまで揺さぶれるのって御嵩さんだけっしょ」
「あー……」
「納得しか無い言葉やね」
愛情と憎しみは表裏一体。愛情と憎しみの真逆は無関心。もし詩緒に綜真に対する感情が一欠片も残っていなかったならば、出会って即逃げ出すという行動にも至らなかった。
「……だとしたら、御嵩さんもう手遅れかもね」
「は……?」
先程まで寝ていた斎は別として、確実にそれを知っている筈の綜真も訳が分からないといった表情を浮かべている。四條に関しては自分は無関係と言わんばかりにそっぽを向いて酒のメニューを見ている。
「御嵩さんも見てただろ? 榊は那由多が連れて帰ったんだよ」
「ああー、赤松アレ絶対榊の事狙ってるよね」
どうしようもないと言うかのように真香は両肩を竦めて溜息を吐く。
「本田に譲らんと、自分が送り届けるべきやったな」
詩緒は絶対に断らない。少し前斎に言われた言葉が綜真の頭の中でぐるぐると回る。
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