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第七章

 詩緒は夢を見ていた。とうの昔に忘れた筈の記憶だった。  ――お前さあ、何で『助けて』も言えねえの?  綜真が初めから本気で無かった事は詩緒にも分かっていた。ただでさえ御嵩綜真という男には元々良くない噂が付き纏っていたのを詩緒は知っていた。  全身が軋むように痛い。元々男の身体は同性との性行為を受け入れるように作られていない。綜真と寝たという噂が大学中に広がり話した事も無い男から声を掛けられる事が多くなった。どれだけ追い返し、逃げ回っても時には大人数、多勢に詩緒が力で叶う訳が無かった。抵抗する事も何もかも虚しく、受け入れてしまえば楽だった。  窓の外から覗き混んでいる綜真と目が合った。あの日から用済みとばかりに姿を現さなかった綜真が、ただ見ていた。誰の所為でこんな目に合っているのか、身に覚えの無い罰を延々と受けさせられ続け、どこかの感情回路がショートしてしまった気がした。  もう大丈夫だ、そう言う綜真に毛布ごと抱き締められた。何を今更、全部悪いのはお前じゃないかと罵る言葉も上手く出て来なかった。誰の物かも分からない精液が身体中に充満しているような気持ち悪さに、蛞蝓のように身体中を這った舌や指の気持ち悪さに、自分が自分では無くなってしまったような不安に、全身に鳥肌が立ってその場に嘔吐した。  ――タスケテ、タスケテ。そんな言葉、心の中で何百回も、何千回も唱えた。誰も助けてはくれなかった。綜真以外は。  指を絡ませると綜真の手が握り返す。それがただ嬉しくて、綜真と手を繋ぐ事が好きだった。 「……榊さん」  手を繋ぐ感触がやけに生々しく、詩緒の意識は現実へと引き戻された。緩く握れば握り返して来る手にこれは誰の手なのかと考えながら詩緒は今日の行動を思い起こそうと思考を巡らせた。今日は飲み会があって、那由多と飲み比べをする為にグラスを持って席を移動した。 「あ……」  そして思い出した。詩緒は綜真をトイレへと連れて行った。下戸の綜真が酒を口にすればどうなるかなんて自分でも分かっている癖に、酒宴の気にやられたのか真っ青な顔をしていた綜真をトイレへと連れて行った。そして、そこからの記憶が曖昧だった。  ――最後にちゃんと伝えられなかったから。  綜真は自分に何かを伝えようとしていた。『最後』に伝えられなかった言葉を。詩緒も綜真に伝えたい言葉をずっと持ち続けていた。 「起きました?」  薄暗い部屋の中、寝返りを打つと那由多の顔がぼんやりと見えた。 「……赤松?」  部屋の様子から推測するに明らかに此処は自分の部屋の筈だった。其処に何故か那由多の姿があった。どうやって帰宅したかを覚えていない詩緒が、誰かに連れ添われて帰宅した事を推測するのは容易だった。それが恐らく那由多だったのだろうと納得した詩緒は自分の利き手が那由多の左手と指を絡めている事に気付いた。 「……悪い、帰れなかっただろ」  上半身を起こして手を離そうと腕を引く。今が何時かも分からなかったが恐らく終電も無いこの時間、今から那由多が帰宅するとすればタクシーを使う事になる。現金は幾ら残っていたかと上着のポケットに入っていた筈の財布を探して辺りを見回す。  その時、那由多が指を絡ませたままの詩緒の腕を引く。 「榊さん、約束覚えてますか?」  振り切ろうとしてもビクともしない腕力。詩緒の腕に緊張が走る。那由多は詩緒へと身を近付け、片手で詩緒の肩を掴み耳元に唇を寄せる。 「約束です……榊さんを下さい」  確かに那由多とは先に潰れた方が好きな物を与えるという約束をした。 「あれは、酒の話……」  しかしそれは酒の飲み比べで負けたらの話で、詩緒には酒で潰れた記憶は無い。意識を失ったとするならば綜真と居たトイレの個室の中での出来事の筈だった。 「俺なら御嵩さんみたいに榊さんの事を泣かせたりしません」  詩緒の表情が凍り付いた。この男は自分と綜真の過去を何処まで知っているのか、綜真は何処まで話したのか、詩緒の全身が総毛立つ。真香と斎の二人には自分の過去を少しだけ話した事がある。話したというよりは無理矢理聞き出されたという形が正しくはあったが、本当に明かしたく無い内容だけは今まで誰にも話した事は無かった。綜真と決定的に袂を分かつ原因となった自らの汚点。  ――――嘘吐き!!  全てを否定した時、綜真はとても傷付いたような顔をしていた。痛みを分かって欲しくて、当時の詩緒にはそんな伝え方しか出来なかった。助けて欲しい、苦しくて、自分の事しか考えていなかった事実は否定しない。綜真に子供だと散々罵られた事は実際事実だったのだ。あの頃の詩緒は本当に子供で、自分の言葉があんなにも綜真を傷付けるとは考えていなかった。  確かに大切だった筈なのに、自分の手で粉々に壊してしまった。時間を越えて詩緒の目から涙が溢れる。  きっと、綜真が伝えたかった言葉というのは正式な別れの言葉――。 「榊さん……」  那由多の片腕が詩緒の頭を抱き寄せる。優しくゆっくりと詩緒の頭を撫でる那由多の手。 「大丈夫です、俺が榊さんの事を守りますから」  守るなんて言葉を言われたのは初めてだったかもしれない。 「……俺、……口悪ィじゃん」 「そんなの、もう慣れましたよ。……好きです。どんな貴方の事でも」  真香や斎が詩緒に向ける言葉とは違う、那由多の詩緒に対する『好き』の形。  那由多が詩緒の顔を覗き込むように顔を近付ける。そんな経験は詩緒にとって初めての事で、今目を閉じて那由多の事を受け入れたならば――過去を、捨てる事が出来るのだろうか。  近付く那由多の顔に詩緒の瞳が揺れる。那由多の目に今の詩緒の表情はどのように映っていたのか、那由多は片手で詩緒の目元を覆い隠し、そして唇を重ねた。

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