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第八章
那由多と身体を重ねたという事実は、詩緒にとっては取るに足らない事だった。自分の身体は芯まで汚れきっている。それでも構わないと那由多は言って詩緒を抱いた。
一晩中那由多は詩緒の身体を放さず、耳元で何度も愛を囁いた。「好き」や「愛してる」、「可愛い」なんて言葉を今まで誰かから告げられた事の無かった詩緒は同時に動揺もしていた。ただ身体の関係だけでは駄目だったのだろうか、詩緒は今までそうしてきていた。しかしそれは決して自らが望んだ訳では無く、気付けばいつでもそういった状況になってしまっていた。
「……下らねぇ」
相手が那由多であってもきっと結末は変わらない。最後は傷付け合って、それで終わりだ。物珍しいのは最初だけだと、午前中に片付けるべく仕事を終えた詩緒は、真香と斎からの社内チャットからの返事が無い事を確認すると早めの昼食を済ませてしまおうと、出勤前にコンビニで買っておいた袋からゼリー飲料のパウチを取り出す。
「お前、まだそんなモンばっか食べてんのかよ」
口から心臓が飛び出るかと思う程詩緒は驚いた。振り返れば個室の入り口に持たれて綜真が立ち詩緒を見ていた。二人の距離は十分にある、ゆっくりと深い呼吸を繰り返しながら詩緒が視線を送ると、綜真はかつかつと淀む事のない歩幅でデスク前に座る詩緒の側へと近寄る。
「野菜もちゃんと食えっつっただろ」
ぽん、とデスクの上に綜真が置いたのは紙パック入りの野菜ジュース。詩緒は何度か綜真に食生活を注意されていた事を思い出した。呼吸に問題は無く、代わりに強く握り締めたパウチからは中身が溢れ出て詩緒の手とデスクを汚していた。
綜真が詩緒の手首を掴み、詩緒の手からパウチが床に落ちる。ゼリーでこれ以上袖口が汚れないよう綜真は詩緒のシャツの袖を捲ると手を伝い流れるゼリーに、舌を這わせた。
言葉が紡げない訳では無い、呼吸にも問題は無かった。詩緒は指一つ動かせずにただ綜真の行動を見つめていた。掌の皺から指の股まで、隙間なく舐め取って行く綜真の舌は熱かった。
何か言わなければ、詩緒は焦燥感に駆られる。しかし予想の斜め上過ぎる綜真の行動に詩緒は伝えるべき言葉の選択を誤った。
「……うる、っさいな、放っとけよ!」
手を振り払った時、一瞬だけ見えた綜真の表情に詩緒の心が大きく揺さぶられた。そのまま綜真は両手をスラックスのポケットの中へと入れると踵を返して詩緒に背を向ける。
「……余計な世話だったな」
「…………そ、……ま」
また選択を誤った、と詩緒はデスクチェアから腰を浮かせる。伝えたい言葉はそんな物ではなく、もっと大事な事だった。
詩緒は駆けた。部屋を出た綜真を追う為に。入り口の扉に手を掛け綜真が進んだ先へと身を乗り出す。
「待って綜、ま……」
「今戻りました榊さん」
突然背後から掛けられた言葉に、詩緒は心臓が止まるかと思う程に驚いた。詩緒の背後から現れた那由多は詩緒の腹に手を回し耳元へ音を立てて口付けた。詩緒の視線の先、部屋に戻ろうとしていた綜真はただ二人を一瞥するとそのまま何も言わずに共有の個室へと戻った。
珍しく別棟にある自らの個室で作業を行っていた四條は意図せず三人の関係性を目の当たりにして眉間を抑える。幸いな事に、今の所詩緒が綜真の存在にストレスを感じて作業に身が入らないという報告は受けてはいない。元々詩緒、真香、斎の三人で上手くバランスが取れていたこの第五分室、そこに詩緒を巡る二人の人物が新たに加わった事で起こる関係性の変化は斎一人の報告に頼る訳にも行かず、以前より頻繁に四條は分室で過ごす事にしていた。
四條は従弟である綜真の事を幼い頃から知っていた。多少肩入れしたくなる気持ちはあれど仕事に公私混同は禁物、詩緒にとっての弊害となるならば従弟であっても切り捨てる決断は必要になってくるだろう。
今回の斎の事故の件もあり、どうしても人手は必要だった。斎には営業事務の仕事に専念して貰いたい為、四條は自らの片腕となる存在を必要としていた。目を付けた社員に以前から何度も声を掛けているにも関わらず未だに首を縦に振らないその人物への攻略を考えながら、四條は自室の扉を開けて顔を出す。
「榊、一緒にお昼行こか」
四條の奢りという事もあり嬉々として着いてきた詩緒は小洒落た寿司屋で昼食をご馳走になっていた。
「いただきます」
「おあがり」
四條ファンクラブの一員として、本来抜け駆けは禁止となっていたが四條本人からの誘いという事もあり、真香と斎の二人に気兼ねする事なく詩緒は四條と二人きりでのランチに胸踊らせていた。
詩緒ら分室既存メンバーにとって四條の存在はアイドルにも親しい存在であり、容姿は元より無駄の無い思考や行動は詩緒も尊敬していた。箸の運び方一つをとっても神々しいと拝み倒したくなる気持ちを抑え、詩緒は長過ぎる前髪を避けて握り寿司を口へと運ぶ。
「榊、綜真は居らんほうがええか?」
核心をつく言葉に詩緒の箸から寿司がぼろりと零れ落ちる。それを聞く為にランチに誘ったのかと落胆する詩緒だったが、四條からの質問の答えを導き出す為に思考を走らせる。
自分にとって綜真という存在が必要か否か、即答出来るものではなかった。どちらの選択肢だけで考えた場合、『不要』と即決出来る程憎んでいる訳では無い。
「……別にそ、御嵩、さん、が居ても俺の仕事に支障は無いです」
綜真と言い掛けたな、と気付いた点を四條は呑み込んだ。
「それならええねん。もし榊が綜真を要らへん言うならアイツの事神戸に戻さんとあかんかったからね」
そんな面倒そうな手続きが必要になる判断を自分に委ねないで欲しいと心の中で思った詩緒だったが、同時に滅多な発言をしなくて良かったと安堵もした。
緑茶の蒸気で曇った眼鏡を外し眼鏡拭きで拭きながら四條は詩緒の表情の機微を注視する。
「……もう一個、聞きたいんやけど」
「…………何でしょうか」
このタイミングで聞かれるという事は碌な話題ではないと詩緒は検討を付けた。
「赤松と寝たか?」
四條の質問は詩緒の予想通り、本棟ならばセクハラやパワハラとされるこの発言も分室内では不問とされる。どう転んでも性的な内容が絡んできてしまう第五分室では、その部分に蓋をしてしまう事の方が後々何か問題が生じた場合後手に回ってしまう。
「はい、寝ました」
「……ほうか」
綜真の従兄である四條が綜真から何処迄を聞き及んでいるのか詩緒には想像が付かなかった。しかし、もし四條が|本《・》|当《・》|の《・》|事《・》を知っているとしたならば、このような外食の場ではなく、四條の部屋に呼び出されていてもおかしくはなかった。
今それを四條に話すべきか詩緒は悩んでいた。それを四條に伝える事で何が変わるのかは詩緒には分からなかった。真香や斎にも話した事の無い綜真との過去と事実。墓に入るまで一生隠し続けられればそれで良かった。
「……榊、もっと楽にしいや」
気が付くと、詩緒の手からは箸が落ち呼吸が上がっていた。咄嗟に手元に置いてあったグラスの水を取り喉の奥へと押し流す。冷たい水が食道を流れていく感触に冷静になれた気がした。
四條ならば話したところで決して色眼鏡で見るような事は無い。真実を知った上で適切な対応をしてくれるだろう、詩緒には四條に対する絶対的な信頼があった。
「……四條さん、聞いて欲しい話があります」
詩緒は四條に打ち明ける事を選んだ。
「榊っ、お前えぇえ!!」
四條と共にランチから戻った詩緒は待ち構えていた真香の突撃を喰らう。受け身を取りはしたが背中を壁に打ち付け、苦悶の表情を浮かべながらシャツを掴んで揺さぶる真香のなすがままにされていた。
「四條さんと二人っきりで昼飯行きやがってえ! 誘えよ! 俺も!!」
「……チャットの返事無かったの真香だろ。忙しくしてるんだろうなーって」
「だからって!!」
勢い余って詩緒のシャツのボタンが吹き飛ぶ。しかし真香が驚いたのはその事では無かった。
「榊お前……泣いたの?」
声を潜めた真香の指先が詩緒の目元をなぞる。お絞りで十分冷やしてきたつもりだったがまだ腫れが残っていたかと詩緒は目の前の真香から視線を背ける。代わりに向けられた詩緒の耳元に真香は唇を寄せた。
「那由多の事? 御嵩さんの事? 今晩慰めてやろうか?」
大義名分を並べながら結局のところ目的は後者だろうと受け取った詩緒は唇を強く噛み締める。
「流石に廊下で盛るのは無しでしょ」
斎の言葉に真香は振り返る。二人の騒ぐ声が聞こえて個室から顔を出した斎はやれやれといった表情を浮かべて二人へと近付き屈み込む。詩緒が四條と二人でランチに行ったという事実を知った真香が知った時点でこのような事態が起こる事を斎は想定していた。しかし今は自分達だけではなく那由多や綜真が居る。無闇に見える所での行為は慎むべきだと、斎は宥めるように真香の頭に手を置く。
「まぁだ盛ってねえよ。お楽しみは夜にとっとく事にしたんだから」
「……勝手に決まってやがるし」
不服そうに詩緒は呟く。
「なに真香今日榊と遊ぶの? じゃあ二人で俺ん家おいでよ。真香も榊も進捗は順調だし今日は上がれるでしょ?」
良からぬ事を考えていそうな斎の表情に詩緒は心底嫌そうな表情を浮かべる。
綜真はそんな三人を四條の個室から見ていた。手が空いた時観察する中で三人だからこそ成り立っているバランスというものが存在しているように見えた。その中に突然放り込まれた自分と那由多。事故を起こした斎のサポートという名目ではあったが四條が何を考えてこの人員の増加を決断したのか、綜真には計り知れないままだった。
「綜真、聞いとるんか」
四條の言葉で綜真は意識を引き戻される。
「悪ィ、聞いてなかった」
「自分なぁ……」
詩緒とのランチから戻ってきた四條は早々に綜真を自分の部屋へと呼び出した。呼び出しの内容は詩緒から聞いた話に対しての確認だった。綜真は四條から尋ねられた内容を概ね事実であると認めた。
詩緒が四條に何処までを話したのか気になっていた綜真ではあったが、四條から伝えられた内容は綜真の予想の範疇を出なかった。やはり信頼を置いている四條相手であっても、自らの核心は晒せなかったのかと感じた綜真だった。詩緒らしいといえばそうであり、またここで変わらぬ詩緒の一面を知った綜真は無言で拳を握り締めた。
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