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 昼勤のシフトを終えた冬榴はその日の夕方、自宅アパートに夏井を招き入れた。  夏井と秋瀬のシェアハウスから徒歩十分程度であるということは知っていたが、実際に冬榴の部屋に足を踏み入れるのはこれが初めてで、部屋番号もこの時に初めて冬榴から伝えられた。  一人暮らしに特化した部屋であるから他の人を招き辛いと誤魔化す冬榴だったが、この部屋に何回も春杜が遊びに来ていることを夏井は知っていた。  夏井の不安や危惧を何ひとつ気付いていない冬榴は適当に片付けたソファベッドの前にテーブルを並べ、夏井へ楽にしていて欲しいと促した。  初めて入る冬榴の部屋は夏井にとって物珍しいものであったが、中でも特に目を引いたのは邦楽ロックの音楽CDが多いことだった。残念なことに夏井は邦楽ロックの知識に明るくなく、何気なく置かれているCDのアーティストも名前を知っている程度のものだった。  恐らく冬榴と同じバイト先で働いている秋瀬や春杜の方が冬榴に関しては趣味などを含めずっと詳しいのだろう。自分だけが出遅れているという感覚が余計に夏井の心に影を落とした。 「このバンド、好きなんだ?」  夏井はコーヒーカップを両手に戻ってきた冬榴に尋ねる。同じようなカップがふたつあるという事実も尚更夏井を苛立たせる。テーブルにカップを並べ横髪を耳に掛けながら冬榴は夏井が指し示したCDに目を向ける。 「あー、もう解散しちゃったバンドだけど」 「僕も名前だけは聞いたことあるかも」  思わず琴線に触れられた冬榴は表情を綻ばせて話し出す。 「ギター変わった時は持ち直したんだけど、ボーカル脱退してからはやっぱり続かなくなっちゃってね。休止から解散までは早かったんだよな。ギターは小説家に転身したけど最近名前聞かなくて、今でも音楽活動してるのはベースだけなんだけどやっぱり俺は五人揃ってた頃の曲が――」  未だかつて冬榴がここまで楽しそうに話すところを見たことがあっただろうかと夏井は呆気に取られた。しかしそれは決して不快なものでなく、活き活きと話す冬榴の姿は逆に心地の良いものだった。  一方の冬榴は思わず話し出してしまったが、自分の興味のあることだけ饒舌に話すことは良く思われないということを思い出し途中で言葉を呑み込む。 「って、こんな話夏井くんは興味無かったよね」 「あ、いや僕は……」  慌てて冬榴はしまい忘れたそのCDを片付けようと身を乗り出す。それでも相当動揺をしていたのか、テーブルの角に腰をぶつけ上に置かれたコーヒーの水面が大きく揺れる。思わず溢れるかもと身を返した冬榴はバランスを崩し、咄嗟に夏井がその身体を抱き留める。 「夏井、くん?」 「――冬榴さん、話したいことって何?」  身動きの取り辛い体勢で背後から夏井に抱き留められた冬榴は急な密着に自らの鼓動が早くなっているのを感じていた。頭の後ろ、耳の裏に夏井の吐息を感じながら冬榴はこの動揺が夏井にバレなければ良いと願った。  冬榴は夏井の様子がおかしいことに気付いた。夏井の片腕は胸元を支えるように回されもう片方の手は突発的な状況から両脚の間へと置かれていた。  これまでの夏井ならば軽口でも投げた後簡単に解放してくれたものだったが、この時ばかりは何故か背後から冬榴を抱き締めた状態のまま微動だにしない。 「冬榴さん僕に嘘ついてたよね」 「え、なんのこと――」  夏井の指先だけが意思を持って動き始めたことに冬榴の背筋が震える。 「――春杜さんとだけじゃなくて、やっぱり秋瀬とも寝たでしょ」  冬榴の頭の中に警鐘が鳴り響いた。誰から何を聞いたのかということはこの際問題ではなく、指先の触れる箇所が明らかにそういった関係性と行為を示唆していることに気付いた冬榴は背後の夏井を振り払おうと腕を上げ――そして、一瞬躊躇う。  加減が出来ない。もし全力で夏井を振り払ったならば、酷い怪我をさせてしまうかもしれない。その一瞬の躊躇いが油断を招き、気付いた時冬榴は天井と夏井の顔を仰いでいた。 「あっ……」  続いて冬榴の身体に衝動が走る。夏井の手が、指が、冬榴の中心部を手荒くそして執拗に揉みしだく。  一瞬前の冬榴ならば覆い被さる夏井の身体を押し返すことなど容易だったが、男性の急所ともなるその部位へ的確な刺激を与えられ続け冬榴の呼吸は徐々に上がり始める。 「夏井くん、いやっ――」  びくりと冬榴の両脚が跳ねたのと、頬に熱い衝撃が走ったのはほぼ同時だった。  それは辛くて、心が痛くて、怖くて。冬榴の内側から込み上がる感情がじわりと目元に浮かび上がる。 「――何が、嫌? こうやって秋瀬にも脚開いてたのに」  こんなことを一度だって自ら望んだことは無かった。夏井の指摘は確かに事実であり、拒絶しきれず秋瀬に身体を許したことは何度かあった。  それでも夏井だけは秋瀬とは違う種類の人間だと思いたかった。服を破かれ、止める手も虚しく強引に脱がされ、抵抗すれば頬を打たれ、叩かれた頬よりも軋む心の方がずっと痛かった。  夏井にもう言葉は通じず――弁解出来ることなど何ひとつ無かったが――男性器を受け入れる形に作られていないそこに無理矢理ねじ込まれ、全身を駆け巡る衝動が、肉を裂く痛みが、全てが冬榴に対しての罰だと言っているようだった。  夏井に伝えたい言葉があった。それは秋瀬と性的な関係があったという事実ではなく、春杜と共にこの土地を離れることになるかもしれないということ。夏井には話さなければならないことだと思ったからだった。  身体よりも心が痛くて。温和な夏井が激情に駆られたまま一方的に蹂躙するだけの行為に走らせてしまった責任は全て自分にあるのだと、冬榴は何度も懇願するように謝った。 「なんでっ、僕だけ――冬榴さんのこと、なにもっ――!」  絞り出すように吐き捨てた夏井の言葉に、冬榴の脳裏に春杜から告げられた言葉が蘇る。  ――サトシくんが冬榴に積極的にアピールしてるのが珍しいって。  身体の中に穿たれた夏井がとても熱くて、脳天までを突き上げる衝動がとても悲しくて、重なる夏井の手はとても温かかった。  この瞬間の冬榴は夏井ばかりに意識が取られ、床に置かれたスマートフォンが鳴動を続けていることに気付けていなかった。  何度も、何度も繰り返されるその通知の度にディスプレイは薄明るく点灯し差出人である〝当主〟の名前を表示していた。 「なついく……」  冬榴の頬に温かな水滴が滴り、冬榴は夏井の顔を見上げる。 「冬榴さんのこと、もう二度と泣かせたくないって思ってたのにっ……」  初めて見る夏井の表情だった。いつだって冬榴をからかい余裕綽々だった夏井が今その整った顔をぐしゃぐしゃに歪めながらも己の感情と闘っている。  ――この人は、最初からずっと本当のことだけを言っていたのだと感じた冬榴は震える両手を夏井の背中へと回して抱き締める。 「さ、とし……」

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