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Ⅴ
身体の表面は冷えても、その内にはまだ冷めない熱が燻っているかのようだった。
求めるように伸ばされた夏井の腕の中から起き上がった冬榴は穏やかに眠る夏井の寝顔を眺める。指先でそっとその頬に触れるととくんと温かい体温が伝わる。
きっと全ての感情を出し切った夏井はそう簡単に目を覚まさない。夏井の本心を知ることが出来た冬榴は穏やかな気持ちに満たされていた。
赤茶けた長髪は顔を下に向ければ流れる水のように下へと落ちる。その髪が皮膚に触れても夏井は気付くことがなく、冬榴は目を細めて薄い唇にそっと己のものを重ねる。
顔だけが好きで、いつもからかってくるその性格が大嫌いだった。突然キスをされて、春杜との仲も疑われ、そうかと思えば変質者から助けてくれた直後に酷い言葉を浴びせられた。
複雑で難解で、だけど本当は自分の感情をストレートに表現するのが苦手なだけの人だということが冬榴にも少しずつ分かってきた。
あの時、芽生えた何かが今小さな蕾を付けた気がした。これが〝愛しい〟という感情なのだと、冬榴は初めて実感した気がした。
冬榴は視界の端に何か違和感のようなものがあることに気付いた。何のタイミングでか床に滑り落ちたスマートフォンが点滅を繰り返し、冬榴に通知があることを繰り返し知らせていた。
ちらりと夏井を見遣り、まだ目を覚ます兆候が無いことから冬榴はそろりと布団を抜け出し手を伸ばしてスマートフォンを手に取る。
ディスプレイに表示されていた通知はおよそ二十件強の着信通知、その全てが春杜からのものだったことに気付いた瞬間冬榴は青褪める。
今まで一度足りとも春杜からの連絡を無視したことは無かった。間髪入れずに入れられている着信は余程の急用か、サッと冬榴の血の気が失せた。
何よりもまず優先して行うことは折返しの連絡で、震える手でパスコードを解除した冬榴は春杜へ発信すべく電話マークに指先を近づける。
その瞬間、ドサッと重々しい音が玄関先から響き思わず冬榴の肩が跳ねた。
玄関からは何の応答も無く、冬榴は再度夏井が寝ていることを確認してからズボンを履いて玄関先へと向かう。尋常ではない何かがぶつかったような物音に冬榴は恐る恐る玄関扉を開ける。
扉が開くと同時に冬榴の腕の中に飛び込んできたのが春杜だということを理解するのに時間は掛からなかった。普段の春杜と違うところがあるとすればこんなに真っ赤な上着を持っていただろうかというところだった。しかし、それがシャツではなく、春杜自身の出血によるものであるということに冬榴はすぐに気付いた。
「樒さんっ!?」
「ざ、く……ろっ」
春杜は虚ろな眼差しで、小さな咳込みと共に冬榴の胸元に血を吐き出す。冬榴が振り下ろされる歪んだ包丁の反射光に気付いたのは次の瞬間だった。
絵の具の様にべったりと真っ赤な血液がこびり着いた包丁は冬榴に凭れ掛かる春杜の背中に振り下ろされた。包丁の持ち主は紺のフードを深く被り、顔こそ良く見えなかったが、それが春杜の言っていたストーカーであるということに冬榴はすぐに気付いた。
「ごふ、っ……」
春杜は再び口から血を吐き出し、冬榴に捕まる腕の力も無くそのまま冬榴の身体を伝い崩れ落ちる。
「……は、は……はるとぉ……」
崩れ落ちる春杜をただ呆然と見る冬榴の前でその男はポケットから何かを取り出し蓋を回し開ける。
それがライター用のオイルであると冬榴が気付いた時、男は内用液を春杜の頭から掛けていた。独特なアルコール臭が鼻につき男がライターに火を灯した瞬間でさえも冬榴が何も出来なかったのは、目の前の光景が現実のものであると理解出来なかったからだった。
「これで……俺の、もの」
「お前……何、やってんだよ。冗談よせ……」
ようやく絞り出した言葉も虚しく、男が灯した火は春杜の頭部を瞬く間に真っ赤な炎で染めた。
「ああぁあああああああッ!!」
「樒さん!!」
それがもう人間の言葉であったのかも冬榴には分からなかった。炎に包まれ悲鳴を上げる春杜の姿を見た瞬間、冬榴の中で何かがぶちりと切れるような音がした。
何も考えることが出来ず、計算することも出来ずに冬榴は奇声を上げて喜ぶ男の側頭部を鷲掴み、その顔面をコンクリート造りの地面に叩き付けていた。
「ぐあっ……!」
手から伝わる生々しい頭蓋骨が割れる感触にも気付かぬまま、冬榴は再び持ち上げたその頭を全身全霊を込めて地面へ叩き付ける。
カラカラと白い歯が飛び散る様子を余所目に冬榴が再度男の頭を地面へ打ち付けた時、コンクリート製の地面にはクモの巣状のヒビが入っていた。
それがさも当然のことであるように、春杜に害をなした存在を排除した冬榴は真っ黒に焼け焦げた春杜へようやく目線を向けた。
「ざ、く、ろ……」
炎は春杜の全身を包み、火傷としての重傷度合いが高いことはひと目見ても明らかだった。
ただの黒い炭と化した存在の指先が僅かに動き冬榴を求める。冬榴は自分の手が目の前の男の血と春杜の血で真っ赤に汚れていることも厭わず真っ先にその手を握る。
「樒さんっ」
燃やすものが無くなった炎は鎮火して、そこにはただ人の形をした黒いものが横たわっていた。
そして溶け落ちた眼球が時間を巻き戻したように眼孔に収まり、真っ赤な熱傷が徐々に肌組織を再構築していくと冬榴はその春杜の身体を胸元へと抱き寄せた。
骨の上に筋肉、そして神経が再生していくと春杜はまだ赤黒いその指で冬榴の胸元に爪を立てる。
「何度も……何度も、連絡、した、だろっ……」
「あ、あ……ごめん、ごめんなさい俺っ……」
その数は二十件強。ストーカーに刺され追われている間春杜は何度も助けを求めていたのだと実感した冬榴は何故早く気付けなかったのだろうと途方もない後悔に苛まれた。
こういったことが起こらないようにいつも側に居たのに、一番大切な時役に立たなかった自分はなんて愚か者だろうと冬榴は震える腕で春杜を抱き締める。
だからこそ、冬榴には気付けなかった。
カタンと部屋の奥から物音がした時、冬榴は大切なことを思い出す。
「――春杜、さん?」
そこに立っていたのはさっきまで寝ていたはずの夏井で、何が起こったのかも理解出来ない様子で玄関先の二人を覗き込もうとしていた。
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