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#002 Hole

 翌日絵の具をぶち撒けたような青空が広がり、早苗は意を決して実店舗限定のフレーバーを味わうために外へ出た。  動画にも映る特徴的なピアスは外し、青味がかったヘアカラーに黄色いメッシュが目立たないようにキャップを被りその上から更にフードを被る。サングラスまで装着してしまえば完全に不審者なので、黒いウレタンマスクで口元を隠すだけに留める。  オートロックの入口を出る前にも外の様子を注視し、誰かが潜んでいないかを確認する。建巳と一緒ならば怖くないことだったが生憎建巳にも大学の授業や付き合いがある。この配信部屋を用意してくれただけでも建巳には感謝が尽きず、だからこそひとりで外出できるようになったという成長を建巳に見せたいという意味もあった。  マスクと帽子で顔を隠すのはまるで芸能人気取りのようだったが、過去に自宅まで付け狙われたことを考えると用心を重ねるに越したことはない。何かあればすぐに連絡が出来るようポップなジェルネイルを施した手でスマートフォンを胸元に握り締める。  駅前に座する有名なカフェチェーン店。平日の午前中ということもあって立地の割りに人で賑わっているという様子はない。外から見る限りではレジにひとりいるだけで、この程度なら人目をあまり気にせずオーダー出来る気がした。  最近は何でもインターネットで配達が出来る時代となったので子供の頃よりずっと人と接する機会が減ってしまった。あまり長居をしなくて済むように電信柱の影に潜み、オーダーしている先客が終わるまで待機をしてから早苗はフードを両手で掴みながら店内へ入る。 「いらっしゃいませー」  あまり元気過ぎない女性店員の挨拶に救われた気がした。それでも周囲をきょろきょろを見回してしまうのは早苗の癖であり、こんな事とてもではないが《翡翠メイ》のファンには知られたくない。無意識にマスク越しの口元を抑えながらレジに置かれたメニューへ視線を落とす。 「あ、あの、これ……」  早苗は店舗限定のフレーバーを震える指で示す。普段は全てフードデリバリーアプリで注文しているからこそ、実際に自分の言葉で注文をする時はこれで間違っていないかという不安に襲われる。仕事だからこそ接客をしてくれているが、心の中では上手く言葉で伝えられない自分のことを嘲笑っているのではないかや、もしかして《翡翠メイ》であるということを認識されSNSで拡散されるのではないかという根拠のない不安があった。  人の目が怖い、相手が自分を見てどう思っているのかが怖い。言葉では綺麗事を並べて心の中では全く別のことを考えているかもしれない。本当は心の中で嘲笑っているのかもしれない。きゅっと心臓を冷たい手で鷲掴みにされたような感覚となる。 「お支払い方法は?」 「あ、えっと……電子マネーで」  声を掛けられて早苗はびくりと肩を揺らす。電子マネーでの決済方法も釣り銭の受け渡しで人と接触しなくて済むと建巳が教えてくれたものだった。 「それではこちらにタッチをお願いします」  決済バーコードを店内のセンサーに翳そうとするとストラップがカチャリと揺れる。  ネイルもメイクも――こういったストラップも、可愛いものなら昔から何でも好きだった。だけれど男だからそれはおかしいと昔から言い続けられていた。口では男が可愛いものを好きでも変ではないと言った相手がSNSの裏アカウントで男の癖に気持ち悪いと言っているのを見た。主語が無かったのでそれが自分を示しているとは断定出来なかったが、その頃から早苗は人と会話をすることが苦手になっていった。 「ネイル、可愛いですね」 「えっ……」  突然の言葉に早苗は驚いて顔を上げる。すると女性店員が限定フレーバーのカップを差し出しながらにこりと笑みを浮かべた。 「エメラルドみたいな、キラキラしてて可愛いです」  それはあまりにも突然に自分を肯定されたような気分だった。 「あっ……あ、ありがとう、ございます……!」  建巳以外の人と会話をする機会も殆どなくなり、《翡翠メイ》のネイルなら画面向こうのファンは褒めてくれるが、早苗が好んで選んだこのネイルを褒めて貰えることが嬉しかった。心が昂揚して思わず声が少し上擦る。そんな自分を恥ずかしいと思いながら照れ隠しに俯き、カップを両手で受け取り頭を下げる。  きっと酷く情けない顔をしていたかもしれない。恥ずかしくなった早苗は踵を返して一目散に店を出る。  しかし昼間外に出たということと、店舗限定の新フレーバーを入手したということもあったので、店を出たところで一度足を止めた早苗は店頭に置かれた黒板のポップへ視線を落とす。  カップを持つ手とポップがどちらも見えるように角度を考えながらスマートフォンのカメラを向ける。勿論店舗名から活動区域を推察されないように細心の注意を払った。  屈んだまま早苗はストローを口に咥える。家に持ち帰るまで我慢出来そうになかったので、少し行儀が悪かったが実店舗限定フレーバーという許された者のみの味を試す。口内にはカカオの濃厚な味が広がり、有害なほどに甘かったが微かに漂うナッツの香ばしさが早苗を満足させた。思わず小さくなってその場で小刻みに震える。  充分に甘さを堪能した早苗は忘れないうちに写真を投稿してしまおうとSNSアプリを開く。投稿内容は実店舗限定のフレーバーを飲みに行ったこととそれが罪深いほど甘くて美味しかったこと、忘れないように写真を載せてから投稿ボタンを押す。そういう少しずつの努力が大切なのだと前に建巳から教えられた。  生クリームが溶け切る前に部屋へ持ち帰り、ゆっくり部屋でこの味を楽しみながら建巳にも外に出られた報告をしようと早苗は立ち上がる。勇気を出して外に出て良かったとこの時の早苗は心からそう感じていた。  盲目なまで建巳の言葉に従ってしまうのは、建巳の言葉通りに動けば間違いないことを早苗自身が良く知っているからだった。建巳の言葉に従って間違っていたことはひとつもない。だからこそ今日外に出てみて良かったと早苗は本心でそう思っていた。 「危ない!!」  耳に届いた声と、歩き出した早苗の身体が重量に従って下降するのは一体どちらが早かったのか。配信部屋へと戻ろうとした早苗の足元には地面が無く、代わりにあったのは大きな丸い穴。踏みしめる地面が無かった早苗の足はそのまま垂直方面に穴へと吸い込まれていく。 「ッ……!」  その一瞬の判断が明暗を分け、転ぶように片足を蹴り上げた早苗の足は幸いにも厚底靴の土踏まずの部分が穴の端に引っ掛かり落下を免れた。注意喚起の声のせいか、今まさしく早苗が穴へ転落しそうだった状況に周囲の人々はざわつき、真っ先に駆け付けた若い大学生風の青年が早苗の脇の下へ手を回して早苗を穴から引き上げる。 「あなた大丈夫?」 「え、あ……」  底の見えない真っ暗な穴に落ちそうだった早苗は間一髪救助されてもその震えは止まらず、腰からその場に崩れ落ちる。見ればそれは蓋を外されたマンホール穴のようで気付かずに転落していたら怪我では済まなかっただろう。  この状況で冷静でいられるほうがおかしく、飲みかけだった限定フレーバーはマンホール穴の近くに転がっていたが、やがて呆気なく穴の中へと落ちていく。

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