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#003 Love letter <RED>
外に出て良かったと思った矢先に見舞われた事故は、早苗の〝外に出る〟という前向きな思いを大きく阻害した。真っ暗な部屋、唯一の灯りはパソコンのディスプレイのみの中、早苗はまだ落ち着かない気持ちを抱いたまま何もする気になれず気落ちしていた。
「何でこうなっちゃうかなぁ……」
建巳に状況を簡単に説明したところ出来る限りすぐ向かうという返事は貰えたものの、建巳にも建巳の都合があり恐らく部屋に来るのは夜になってからになるだろう。
音のしない部屋でたったひとり、ベッドから引っ張ってきた毛布を頭から被り早苗はただディスプレイを見つめていた。通常マンホールの蓋が開け放しにされることはなく、仮に点検などの場合誤って転落事故などが起こらぬよう看板などを立てることになっているらしい。歩きスマホをしていたという非も早苗にはあったが、そんな看板が無かったことは早苗を救助してくれた大学生や声を掛けてくれた主婦も知っていた。勿論、早苗が看板を穴へと蹴り落としていたという訳でもない。
ただそこに突然穴があった。誤って踏み出していれば数十メートル先まで転落する奈落の穴が。
改めて自らの身に起こった危機を思い出し早苗は身を震わせる。偶然厚底靴が引っかからなければ――怪我で済めばまだ良い方だったかもしれない。打ちどころが悪ければ死の危険すらあった。
スマートフォンが不意に振動し、早苗はびくりと大きく肩を震わせる。
「ッ……なに……」
恐る恐る早苗はスマートフォンを手に取るが、それは何の害も無い常用しているフードデリバリーアプリの広告通知だった。死の危険という非日常から突然日常へ引き戻されたような感覚があり、早苗は俯き深い溜息を吐き出す。
建巳に要らぬ心配をかけたくもなく、自分も少しは前向きになった姿を建巳に見せたいという思いもあり早苗は気分転換をしようとフードデリバリーアプリを通知からそのまま開く。いつも甘いものだけを飲んでいる訳ではなく、場合によっては食べ物を頼む時もある。
断定的に何かを食べたいという訳では無かったが、食べることで気を紛らわすことが出来るならそれでも良いと思った。比較的短い時間で届けてくれる距離の店を絞り込み、駅の反対側に位置しているバーガーショップを開く。アプリ限定の商品もあるらしく、珍しいからこれで良いかと決めた早苗は注文を終えると再びスマートフォンをデスクへ伏せる。
「あ……」
その時早苗が気付いたのはデスクの足元に置かれた紙袋で、それは先日建巳が持ってきてくれたファンレターの類だった。以前ファンがストーカーとなり付き纏った件から建巳は《翡翠メイ》宛てのファンレターを全て郵便局留めとし、建巳が早苗へ手渡すという形式に切り替えた。その間に飲食物や何かが仕込まれているかもしれないぬいぐるみ等は全て省き、早苗にとって害がないと建巳が判断したものだけが少しの時間を置いて早苗へと渡されていた。
建巳は早苗と《翡翠メイ》を全面的にサポートしているが、それでも個人情報やプライバシー保護は遵守し手紙類などは開封せずに早苗へ渡す。昨今は薄型のGPSを手紙に忍ばせ住所を知ろうとする手法も出てきているのでひとつひとつ封筒の上から触って問題ないと思えるものだけを選別しているので、早苗の手に渡るまで時間が掛かってしまう。
忙しい中わざわざ大学で選別までもしてくれる建巳に対しては感謝以外の言葉が見つからず、そうまでして届けられたファンレターは勿論大切に読んでいる。
デリバリーが普段より少し時間が掛かることを想定した早苗は今の内にファンレターを読んでしまうおうと紙袋の中に入った封筒をデスクの上へ広げる。
ダイレクトメッセージで気軽に言葉を伝えられる時代であるからこそ一文字ずつ丁寧に綴られた手紙を早苗は嬉しく思い、今まで貰ったものは全て箱に入れて保管してある。
「……あれ?」
手紙を送ってくれるファンは大体決まりきっていて、男女比は同程度か男性が少し多いくらいのものだったがその宛名の文字の癖などで早苗は大体誰が書いたものであるかを把握していた。それを特技というべきか、その位しか取り柄が無いとも言えるものだったがそんな早苗の目に見知らぬ封筒が飛び込んできた。
それは無地の封筒で、宛名が黒い文字で書かれている以外は別段他のものと何ら変わりない封筒だった。それを異様だと早苗が感じたのは今まで見たことのない赤一色の封筒だからだった。その宛て名も筆ペンのような達筆で書かれており、他の封筒と何が違うのか早苗は表や裏を見返し、そして気付く。
殆どのファンレターには差出人の住所と名前が記載されているのに、この封筒に限っては宛名以外は何も書かれていなかった。つまり差出人不明のファンレターということであり、その異様なカラーリングも相成り早苗は不思議そうに封筒を見詰める。
「誰からだろう……?」
宛名の達筆具合からもしかしたら大分ご高齢の方かもしれない。しかし高齢者こそ普段から宛名以外にも差出人の住所と名前は書きそうなものだと考える早苗だったが、もしかしたら中に差出人の住所と名前が書かれているのかもしれないと考えた。
中の手紙に返事が欲しいという意味で己の住所氏名を書く人は一定数いて、勿論早苗が直接ファンレターに返事を出すことはないが、中に書いてしまったから外には書かなかったとも考えられた。
何にせよ中を見てみれば分かるだろうと考えた早苗は背凭れに体重を預けて封筒の接着面に指を入れて封を開け始める。
指の側面を熱い何かが駆け抜けた気がした。
「え……?」
早苗は封筒を開ける指を止め、ゆっくりと指を引き抜く。すると人差し指の側面に濃く赤い一本の線があった。その線の内側から赤く丸いものがぷくりと浮き上がり、やがてその線が歪むほどの領域を拡げていく。
早苗は自らの指を見た後、封筒へ視線を向ける。まだ接着部を完全に剥離できておらず中途半端に開いた状態のまま、早苗はその接着部に何か錆びた鉄製のものが見えた気がした。それが接着部に仕込まれたカミソリの刃であると早苗が理解するのは当然の流れであり、同時に薄いカミソリの刃なららば建巳がチェックしても見逃す可能性があると思えた。
一体誰が、何の為に――早苗の鼓動は異常なほど速く高鳴っていた。
もしかしたらマンホールの件も偶然の事故などでは無かったのかもしれない。何者かに命を狙われているのかもしれないと早苗が考えるのはごく自然なことだった。
「……建巳さん……はやく、きて……」
気付けばうわ言のように早苗は呟いていた。自分だけでは処理しきれないこの感情を、頼れるのは建巳ただひとりだった。
ガタンッと物音が耳に届き、早苗の心臓は縮み上がった。しかし同時に予定を切り上げて建巳が駆け付けてくれたのかもしれないという希望もあった。早苗は毛布を頭から被ったままスマートフォンを握り締めて配信部屋を出る。
「建巳、さん……?」
声を掛けてもしんと静まり返ったリビングからは返答が無い。建巳ならこんな時すぐに声を返してくれるはずで、やっぱり建巳はまだ来ていないということが分かった。
建巳が用意してくれたこの配信部屋はオートロックなだけあって堅牢で、以前のように自宅までつけられたとしても部屋まで入ってくることは出来ない。
早苗は息を殺して室内を見渡す。やはり人の気配はなく、もしかしたらビビり過ぎただけの思い込みだったのかもしれないと早苗が両肩を落としたその瞬間、握り込んだスマートフォンが鳴動した。
「ひぇっ」
嫌なタイミングでおかしな切っ掛けがあると、自分でも思っていなかった変な声が出るものだと早苗が自覚しているかは分からないが、早苗は恐る恐るスマートフォンに視線を落とす。するとそこにはフードデリバリーアプリからの配達完了通知が届いており、早苗はこれ以上ないまでの脱力感に襲われる。
恐らく先程の音も配達員が玄関前に置いた音で、嫌なタイミングで驚かせないで欲しいと思いながら早苗は玄関へと向かう。
玄関のドアノブに手を掛け、早苗は一瞬思い留まる。もしこの扉を開けた先に〝あの男〟がいたらという恐怖が早苗にはあった。自宅を突き止められ愛の告白をされたが、それは早苗にとって恐怖でしか無かった。何故自宅がバレたのかも分からない。だからこそこの配信部屋に居を移してからも、もし居たらという思いが拭えなかった。
ドアスコープを覗けば普段通り誰も居ない通路。早苗は扉を薄く開けて見える範囲に人の姿が無いかを確認する。そして開けた扉のすぐ先に注文したバーガーショップの袋が置いてあるのを見てほっと一安心をした。
「驚かせないでよ……」
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