2 / 13

Chapter.1

 ただアルバイト先から徒歩十分程度の道を談笑しながら並んで歩く。たったそれだけのことでも冬榴にとっては日常の中にある小さな幸せだった。  丁度中間地点に差し掛かる頃、緑の多い自然公園があり僅かな街灯の中で鳥や虫の声だけが響き渡る。 「すいません、本当ならお茶でも出せたら良いんですけど……」  肩が触れそうで触れ合わない距離感。マサミチにはこうしてもう何度か夜遅いシフトの時に自宅マンションまで送って貰ったことがあるが、今まで一度もマサミチを部屋に上げたことは無かった。  それもそのはずで、冬榴はこの公園からも見える高層マンションの一室にひとりで住んでいる訳ではなかった。 「いいんだよそんなの。気にしないで、僕がしたくてしていることなんだし」  これが大人の余裕というものなのか、冬榴はマサミチの横顔を見上げて思案する。冬榴はそんなマサミチの余裕を素直に「格好良いな」と感じていた。 「親戚の人――だったよね、一緒に暮らしてるの」 「あ、ハイっ」  冬榴の出身地はこんな都心の近くではなく地方の山奥であり、二十歳の節目に冬榴が都会に出て来ることに対する条件のひとつが親戚との共同生活だった。金だけはうなるほどあるらしい実家からの援助で、冬榴ひとりの力では到底暮らし得なかった高層マンションに居を構えることが出来たのも、この親戚の存在にあった。 「昔から良くしてくれる遠縁の人で……その人と一緒ならってこっちに来ることも許して貰えたくらいなので。それに――」  そこまで言って冬榴は言葉を呑み込む。それは危惧すればする程現実に昇華してしまいそうで、言葉の代わりに冬榴は片腕を伸ばしマサミチの背広を掴む。 「トオルくん?」 「あっ……」  逸る気持ちが言葉より先に行動へ出てしまった。もしマサミチの存在が冬榴の同居人である春杜にバレた場合、奪われてしまう可能性が大いにあったからだった。  親戚である冬榴から観ても春杜は魅力的であり、その年齢がアラサーだと知ると誰もが最低一度は疑う。春杜に粉をかけられ誘惑に落ちない男はいないということは親戚である冬榴が一番良く分かっていた。だからこそ春杜にマサミチの存在を知られる訳にはいかず、送って貰う場合にも家の前までを限度とさせて貰っていた。  ただマサミチを横取りされたくないという気持ちが先行して思わず掴んでしまった袖口だったが、それをはしたないと感じた冬榴は弾かれたように即座にその手を離しマサミチから離れるように一歩後退しようとする。 「いいのに、離さなくても」  今度はマサミチから、離した冬榴の手を掴む。それは決して色気のある繋ぎ方ではなくただ離れる手を引き留める為のものだったが、直接手と手が触れ合うその感触に冬榴は息を呑んで硬直する。 「あっ、ゴメン……」  冬榴の緊張が伝わってしまったのか、咄嗟に掴んだ手すらもマサミチはすぐに離す。自分が袖口を掴んだ時にはすぐに離したのに、掴まれた手を即座に離されるとそれには勿体なさを感じ危うく無念の声を上げそうになりながら冬榴はマサミチを見上げる。 「嫌だったよね。こんなオジサンにいきなり手なんて掴まれて」 「嫌なんかじゃ……!」  まるで誘導のようにも思えるその言葉に対して反射的に冬榴はマサミチの手を取る。それはマサミチの手に触れることが嫌な訳ではないという意志の現れであり、片手ではなく両手でマサミチの手を握り返した冬榴はマサミチの顔を不安気に見つめる。  人間というものはこういった時いたく厄介であり、こうして触れ合い目を合わせるだけでは何も伝わらず、大切なことは言葉にしなければならない。  奪われるかもしれないという恐怖に怯えるくらいならば、もっと早く言葉に出して伝えておけば良かった。ただいざこうして言葉に表そうとすると伝えるべき言葉が上手く出てこない。 「マサ、ミチさん……俺は、そのっ……」  じわじわと身体の内側にある熱いものが全身へと拡がっていくような感覚があった。心臓の鼓動がやけに早いのに反して頭の中は真っ白で成功するビジョンが全く見えない。もしそれを伝えて「そんなつもりは無かった」と言われてしまった場合、これまでと同じ関係でいられるのか、マサミチの手を握る両手の指先に力が篭もる。 「――ごめんね」  突然公園内に吹き荒んだ突風に乗ってマサミチの言葉が冬榴の耳に届く。心臓を直接握り込まれているような衝撃に咄嗟の言葉が何も出てこない。 「な……」 「本当は年上の俺が先に言わないといけないことだったのに」  マサミチは掴まれていない片腕を冬榴の腰へ回して抱き寄せる。衣服越しにお互いの身体が密着し、触れた箇所から直接鼓動の高まりを悟られてしまいそうだった。  これは期待してしまっても良いのか、仕事上がりの疲れから見ている幻ではないのだろうか。黒い前髪が翳を射すマサミチの顔を冬榴は不安そうに見上げる。マサミチは冬榴を見下ろし優しく笑みを浮かべていた。  毎日同じことを繰り返すだけのファミリーレストランでのアルバイト。特に生活費に困っている訳でも無かったが、社会勉強の体で出てきているので親戚の厚意に甘えて何もしない訳にもいかなかった。そんな日々の中、マサミチとの出会いだけが冬榴にとって人生を変えるような出来事だった。余裕のある落ち着いた男性で、その器量から決してモテない訳ではないので女の影がチラつくことも無かった。  マサミチは掴んでいる冬榴の手ごと片手を上げ、その指先にちゅっと音を立てて口付ける。ちらりと向けられた視線にどきりと冬榴は心が射抜かれるのを感じた。 「――一目惚れ、なんて安易な言葉は使いたくないけど、ランチタイムにワンオペでひとり頑張る君の姿を見ている内に、俺は」  マサミチの言葉よりも大きく、心臓の音が冬榴の中で大きく鳴り響く。それは冬榴にとっては初めての経験であり、少しずつ成長していたその感情を的確に表現する言葉を冬榴はまだ知らなかった。  びくりと冬榴の身体が飛び跳ねたのは、ズボンの尻ポケットに入れていたスマートフォンが突然着信を示す振動をしたからだった。目の前にいるマサミチだけに意識を集中させていた冬榴は突然起こった着信の知らせに口から心臓が飛び出る程驚きを隠すことが出来なかった。 「あ、ま、マサミチさん、ちょっ、待って。スマホが……」  指先に口付けられ妖艶な視線を向けられ、まるで石になる魔法を掛けられたように硬直していた冬榴だったが、突然その呪いが解けたように現実へ引き戻されるとマサミチの腕からすり抜け尻ポケットからスマートフォンを取り出す。  今も振動を続けるそのスマートフォンは液晶画面に発信者である春杜の名前が表示されており、その下に赤と緑の丸いボタンが並ぶ。冬榴の番号を知っており尚且つ電話を掛けてくる相手など元々同居人である春杜以外有り得なかったが、マサミチとの緊張を伴うシチュエーションの中突然掛けられてきた着信は冬榴の処理能力を上回るのに十分で、どちらのボタンを押せば良いのかも分からないままあたふたとスマートフォンに向き合いながら無意識のままマサミチへ背中を向ける。  背後からすっと伸びてきたマサミチの手は液晶画面に表示される緑色のボタンを迷うことなく押し、冬榴は驚いてマサミチを振り返る。 『――もしもし、トオル?』  スマートフォンからははっきりと春杜の声が聞こえてきながら、冬榴はマサミチから目を逸らすことが出来なかった。マサミチは人差し指を自らの唇の前に立て、通話に応答するようジェスチャーで冬榴に知らせる。  マサミチの目の前で人からの着信に出ることは冬榴の気が咎めたが、着信を受けてしまっている時点で何かしらの応答を返さなければ春杜におかしく思われてしまう。冬榴はほんの少しだけマサミチに頭を下げるとそのままスマートフォンを耳に当てる。 「ハ、ハルトさん?」 『バイト、もう終わった時間だろう?』 「うん――」  共に暮らしているからには冬榴のアルバイトのシフトを春杜が知っていてもおかしい事では無かった。特に冬榴が直接春杜に教えなくとも、春杜にはそれを知る手段も別にあった。 『今ヒロの家に居るからさ、迎えに来なよ』 「えっ」  春杜がヒロと称した人物紘臣は今春杜が付き合っている恋人であり、冬榴と同じファミリーレストランでアルバイトをしている仲間でもあった。そもそも春杜と紘臣が付き合う切っ掛けになったのもどこかで冬榴と春杜が連れ立って歩いているのを見た紘臣が冬榴に頭を下げて春杜を紹介して貰ったことが発端となる。  紘臣が春杜に惚れるのも仕方ないと考える冬榴だったが、お互いにとってそれが何番目の恋人になるのか冬榴は数えるのも億劫だった。それでも余程二人の相性が良かったのか、下世話なことは余り考えたくない冬榴だったが、冬榴の知る限り紘臣とは長く続いている方だと思う。  紘臣も同じファミリーレストランでアルバイトをしているということもあり、自宅はアルバイト先から近いところにあったが、冬榴が春杜と暮らすマンションとは真反対の位置にあった。  店でも注意喚起をされている程最近は通り魔やら変質者が出没すると言われている中、暗い夜道を春杜一人で帰らせることはしたくなかったが、もうあと僅かでマンションに到着するという状況である上マサミチと春杜を対面させたくないという気持ちも先行し冬榴は葛藤する。  それでも、冬榴の中に春杜からの頼みを断るという選択肢は存在していなかった。 「――分かった。これから行くから」  液晶画面に映し出される通話時間を見ながら冬榴は眉間に皺を寄せて溜息を吐く。マサミチだって毎回送ってくれる訳ではない。この時間は唯一無二のものであるのに、春杜を優先してしまうのは冬榴の悲しいサガだった。これで断ろうものなら後で根掘り葉掘り理由を問われ、芋づる式にマサミチの存在が露呈しかねない。 「ごめんなさいマサミチさん。俺、ハルトさ――親戚を迎えに行かないといけなくなって」  スマートフォンを再び尻ポケットに戻した冬榴は事情を説明する為に振り返ろうとする。しかしそれより僅かに早くふわりと暖かいものに身が包まれた。それがマサミチに抱き締められているのだと冬榴が気付いたのはもうワンテンポ後のことだった。 「〝行かせたくない〟って言ったらトオルくんを困らせてしまうかな」 「――ッ!?」  冬榴は状況が呑み込めず、ただ驚きに似た声を上げた。本当は冬榴もマサミチとの時間を優先したい、こんな時にどういった行動を取るのが正解なのか分からない冬榴は行く宛のない両腕をマサミチの背中へと回す。  大きくて広い背中は正に大人の男性そのものといった感じでスーツを掴むのが精一杯の冬榴は自らが赤面し耳まで赤くしていることに気付いていなかった。  ちらりと視界に入った冬榴の耳が街灯の少ない夜の公園でも分かる程に赤いと気付いたマサミチの目元が思わず綻ぶ。 「もう少し……一緒に居たいから、目的地まで送らせて貰ってもいいかな?」  通り魔が出るからなどという口実はもうそこにはなく、ただ自分がそうしたいからとマサミチは少し掠れた低い声で冬榴の赤い耳へ囁いた。

ともだちにシェアしよう!