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Chapter.3

 白い漆喰が待ち受ける入口を潜り赤茶色で光沢のあるレンガ作りの階段を一段ずつ上がれば、冬榴が目的とする紘臣と慧志がルームシェアをしている部屋の緑色の扉が目の前に聳え立つ。  旧式の呼び鈴を押せば扉越しの室内に軽快な音が流れる。それから然程待たずに玄関扉は内側から開かれ、先程出窓から冬榴を見下ろしていた慧志が出迎える。 「いらっしゃい、トオルさん」  ぼさついた黒い蓬髪に顔の半分を覆うほど大きな縁の付いた眼鏡。大学に通う時はコンタクトを着用するし髪型も整えるらしいが、とかく気の休まる自宅の中ではこのような素の装いでいることが多い。 「――ショートケーキ、食べに来ただけだから」  冬榴は両手で鞄の紐を両手で握り、慧志を見上げるように少し目線を上げる。  慧志は冬榴にちょっかいを出してどこか楽しんでいる節があり、アルバイト仲間である紘臣のルームメイトでなければ恐らく積極的に関わるようなタイプでは無かった。  春杜と紘臣のようにそれほど親しい関係ではないのに関わらず、やけに一方的な親しみを持つ慧志は今日のように冬榴が春杜の迎えに来ると分かっている日には、毎回冬榴が今まで口にしたことが無いような甘いお菓子を用意して冬榴を部屋へと招き入れる。 「さあ、どうぞ」  片手を差し出されればそれが正しいことであると信じて疑わず、冬榴は慧志の手を取って部屋へと上がり込む。  ひとりで暮らすには部屋数が多く、玄関から繋がる廊下の左右にふたつの寝室と一番奥にはリビングキッチン。今姿を現さないということは、迎えに来いと連絡をしてきた春杜本人は恐らくまだ紘臣の部屋の中で、リビングへとエスコートされながらちらりと冬榴は紘臣の部屋の扉へ視線を向ける。 「コーヒー紅茶、あとワインがあるけど何を飲む?」  広めのリビングに案内されれば、中央に置かれたテーブルにはひとり分の皿とカトラリーが並べられ、四角く少し大きめな紙製の箱が側に置かれていた。 「じゃあワイン――」  慧志の引く椅子に腰を下ろす冬榴は赤ワインがあるのならばそれを頂こうかと慧志へ視線を向けるが、慧志と目が合った瞬間冬榴はとある事実に気付く。そしてじっと慧志の目を見つめる。慧志はすぐにはその視線の意味が分からず、ただ冬榴へと視線を返すとついでににこりと笑みを加えた。  しかし数拍おいて冬榴が言おうとしていることの意味を理解した慧志の顔色がサッと青くなる。  慧志の旗色が悪くなれば今度は逆に冬榴の表情が明るくなり、マサミチと解散してから無に徹していた冬榴の顔に漸く明るさがにんまりと灯された。  弾力のあるスポンジがフォークの挿入によりゆっくりとその断面を表していく。雪のように真っ白なクリームの中から現れる宝石のように真っ赤なイチゴの輝き。そのひとつひとつの所作に目を輝かせ冬榴はフォークで掬い上げたその断片を口の中へと運ぶ。  砂糖のように甘いクリームとイチゴの酸味が口の中に広がり、その多幸感に冬榴が打ち拉がれる中慧志は赤ワインを注いだグラスをテーブルの上に置く。 「ハルトさんも、好きだからね赤ワイン」  慧志と紘臣、未成年者がルームシェアをしている部屋にアルコールが常備されている理由は、この部屋に訪れる可能性のあるもうひとりの為であると敢えて口に出してフォローする程度にはこのショートケーキは最高だった。 「こんな時間からどれだけ甘いものを食べてもトオルさん全然太らないよねぇ」  慧志は話題を反らすように椅子を引いて腰を下ろす。しかしそれはテーブルを挟んで向かい側の席ではなく冬榴の真隣だった。  二十年も生きていればそれがどんなに地方の山奥であろうと誕生日の折りにはケーキを食す機会もありそうなものだったが、冬榴にとってのケーキは都会に出てきて初めての食べ物だった。だからこそ何もかもが新鮮の連続で、ケーキを与えると言われれば少し苦手な慧志からの招きであっても好奇心という食欲に負けてしまう。  いつでも初めてのケーキを食す少女のような眼差しで、それでも気品のある所作でケーキを頬張る姿はいつ見ても新鮮で、見ていて一切飽きることは無かった。冬榴が春杜と共に暮らしているのは慧志も知っていたが、それでいて食生活に困窮するとは考えられない。だからこうして時折部屋へと呼び込みケーキのみではなくカロリーが高めの食事を振る舞うが、一向に健康的な体系となったように見えない。 「ああほら――口の端っこにクリーム付いてる」 「え、どこ」  慧志は目を細めて冬榴の顔へと手を伸ばす。少し長い赤毛を掻き分け、まるで年相応の威厳を感じさせないその少女のような幼さの残る頬に触れ、折った指先に顎を乗せて僅かに上向かせると口の端に付いたクリームを舌先で舐め取る。 「ひゃっ……!」  気付いた時、冬榴は情けない声を上げて慧志を振り払っていた。ほんの少しの小さな力であっても、筋骨隆々の男にタックルをされたような衝撃があり、慧志の座る椅子が大きくぐらつくが急いで重心を移すことで惨劇を免れる。  まさかそこまで大きなリアクションを返されると思っていなかった慧志は一瞬驚きに目を丸くするが、たった一歳でも年上の男性である冬榴が幼い少女のような反応を見せたことには笑いを抑えきれなかった。  机へと突っ伏し、笑うことで痛む腹を抑えながら肩を震わせて笑う。 「……なに、笑ってるの」 「ッ、だって、トオルさん……まさか、そんな反応っ……」 「だって……」  堪え切れなくなった慧志はテーブルをばんばんと大仰に叩く。ほんの少しの舌先が唇の端に触れたただそれだけのことであったのに、冬榴の顔は茹で上がったばかりのエビのように真っ赤になっていた。  冬榴にとってはそれはあってはならないことだった。慧志のしたことが信じられず、両手で顔を覆いながらその熱くなった顔を隠そうとしていた。 「だって、キスしたら赤ちゃん出来ちゃうだろ!?」  慧志が十九年間生きてきた中で最も衝撃的な一言だった。  鳩が豆鉄砲を喰らったように、ぽかんと口を開けて慧志は冬榴の顔を見る。一方の冬榴は何故慧志が驚いているのか、その理由も分からず後少しで触れ合いそうだった口元を手で覆ったまま信じられないものを見るような視線を慧志へと向けていた。  今までショートケーキを食べたことがないその家庭環境など、冬榴の生活環境にはこれまで疑問を多く抱いていた慧志だったが、まさかキスをしただけで子供が出来ると本当に信じ込んでいるとは夢にも思わず、突発的な激情が収まれば頭の芯まで冷え切りゆっくりと息を吐き出す。  それでも〝あの人〟の異様な過保護ぶりを見る限り、処世術や詭弁ではなく素であるのだろうと判断した慧志は眼鏡を外してテーブルの上へ置く。 「――あのさトオルさん、僕ら男同士なんだからキスしても赤ちゃんは出来ないよ?」  冬榴がキスをして子供が出来ると信じ込んでいるならそれでもいい。恐らくサンタクロースですら存在すると思っているのだろう。そんな純粋な子供の心を打ち砕くのは――まだ早い、と判断した慧志は同性同士では子供は成せないという普遍的な事実のみを冬榴に伝えた。 「……あ、そうか」  ぽつりと冬榴は呟く。その反応ですら慧志にとっては信じられないものだったが、一体どのような教育を受けて生活していれば冬榴のような純粋培養が仕上がるのか慧志にはとても興味深かった。 「トオルさんって本当に……」  ぎしりと椅子の脚が軋む音がする。伸ばした慧志の指先はその真っ赤な顔より更に赤い、およそ自然的に発生したとは思えない冬榴の赤毛に伸ばされる。指先に絡めてもするりと逃れてしまうその髪質はまるで冬榴自身を表しているようで、遥か昔に親か兄か――読み聞かされた童話の主人公を思い出す。 「いつか本当に、悪い狼に食べられてしまいそうで心配だよ」  あの童話に出て来る無垢な少女は人を疑うことを知らず、騙されて狼に食べられてしまう。その結末がどうなったのか慧志はもう覚えてはいなかった。 「――日本に狼は生息していないし、いたとしても餌の獣がいないこんな街中にまで降りてくることはないよ」 「そういう事を言ってるんじゃないんだけどなぁ……トオルさんは狼に詳しいんだね?」 「うん、ハルトさんが言ってた」  慧志の喉奥まで苦いものがこみ上げてくる。このように真実と虚実を織り交ぜて冬榴に教え込むから春杜はタチが悪い。 「――そうなんだ」  まるで親にとって子供は自分の身体の一部とでもあるように、またその子供を親を絶対的に信頼しているような構図が慧志には見えていた。年齢差から考えても春杜が冬榴の親である筈がないのだが、不便に満ちた山奥から都会に出てきた冬榴が親戚である春杜に対して信頼をおいてしまうことはある意味仕方のないことでもあるのだろうと落とし所を自らの中で見つけるしか無かった。  冬榴が残したワインのグラスを取って僅かに残るその内容物を慧志は喉の奥へと流し込む。少量のアルコールであっても酔わなければやってられなかった。  グラスを割らないように気を付けてテーブルの上へと置く。とても酔える雰囲気では無かったが、それは赤ワインのせいか冬榴の顔が普段よりも幼く見えた。 「あっ、そうだ」  突然思い出したようにフォークを口に咥えたまま、冬榴はズボンの尻ポケットに入れたままだったスマートフォンを取り出してテーブルの上に置く。電源ボタンを押せばすぐに待受け画面が表示されたことからパスコードでロックをしていないか、再ロック時間を予め設定しているかの二択が考えられた。 「サトシくん、連絡先を交換する方法教えてくれないかな?」  その言葉に慧志の眉がぴくりと動く。冬榴が春杜と連絡先の交換をしてあるのは頻繁に春杜が冬榴を呼び出していることからも明確だった。ファミリーレストランでアルバイトをしているからには注文を取ったりレジ打ちも業務に含まれているので特に冬榴は機械音痴という訳ではない。単純にスマートフォンという文明の利器の操作が苦手なだけであった。  その冬榴が連絡先交換の方法を覚えようとしている、それは何の為であるのか慧志は考えを巡らせた。そしてすぐに辿り着く、冬榴がここに到着する直前共にいた男の存在だった。 「いいよ、教えてあげる」  笑顔を浮かべて慧志は自らのスマートフォンを取り出す。  一般的に連絡用ツールとして利用されているアプリケーションを当然冬榴も入れていた。それは春杜とのやり取りの為当然のことではあったが、慧志は自らの画面を見せながら新しく連絡先に追加したい相手へ見せるQRコードの表示方法と、逆に自分が追加する側である場合のそれの読み込み方法を説明する。決して機械音痴ではない冬榴はそれを知らないだけで、教えればやはり呑み込みは早い。冬榴が知らない事を慧志が知る度、慧志の中に冬榴という人物に対する興味が沸いてくる。 「そうしたらトオルさん、このQRコード読み込んでみて。うん、友だち追加って出るでしょ? そのプラスのボタン押せば友だち追加完了だよ」 「これでいいのかな……」  先手必勝。良く知らない男より先に冬榴と連絡先の交換を済ませた慧志は自らの画面に表示される冬榴の情報に内心ガッツポーズの拳を握っていた。赤い実のようなアイコンが表示されているのが冬榴のアカウントで、慧志はそのトーク画面を開くと「よろしく」とメッセージを打ち込んで送る。 「わっ、なんか来た!」 「ああそれ僕だよ」 「サトシくん!? 何で!?」 「だって今トオルさんが僕を友だち追加したじゃん」 「うん? んん……?」  良く理解していない様子の冬榴の頭にははてなマークが浮かんでいるように慧志には見えた。  主に通話でしかやりとりをしない冬榴が律儀にも何かメッセージを返そうとする間にも追い打ちをかけるように慧志は連続してメッセージやスタンプを細かに送る。 「わ、ちょっ、サトシくん早いっ……!」 「えートオルさんが遅いだけでしょ」  連続した通知音が冬榴のスマートフォンから流れる音を聞きながら慧志は傾けた椅子の上で上手くバランスを取り肩を震わせて笑う。

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