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第6話

 次の日、珍しく日のだいぶ昇ってから起き上がると、喉はすっかりよくなっていた。  シュジェールはいつものように従者をひとり連れて、馬を駆って大学へ向かう。  これなら、裏金を使わないですみそうだ。あの袋は助教授から巻き上げないとならない。といって、返すつもりはなかった。 (さんざん遊ばれた駄賃として、せいぜいくだらない用事に散財してやろう)  鼻歌まじりでシュジェールは試験会場の扉を開けた。すると。 「おはよう。声はよくなったね」  イサキオスが、小部屋の中央の椅子に座っていた。 「なんでここに?」 「試験官を買収しただけの話だよ。知ってのとおり、私は神学部をのぞいて、大陸共通の教授資格(リケンティア)をすべて持っている。この大学の試験官くらい務まるさ」  シュジェールは用意されていた椅子に腰かけながら白い額に手をあてた。  なるほど、ただの筆記試験変更の手間賃にしては袋の中身が重そうだと思っていたのだ。 「金はこうやって使うものだよ、わかるね?」  「まいったよ。降参だ」  シュジェールは両手をあげた。  イサキオスが身につけているのは元老議員が着る、あの著名なトーガだ。高価な貝紫に染められた幅の広い線条をもった長衣は、男の華麗な容貌を引き立たせている。 「僕は大学さえ出ていないのに、君はもう、元老議員かい? すごい出世だ」  イサキオスは声をあげて笑った。 「これは叔父のものをちょこっと拝借しただけだ。いずれ、この服を着て君と会うことがあればいいと思って、願をかけたのさ」  ということは、イサキオスは予定通り帰国するのだ。 「あからさまにほっとした顔をしたね」  むっとした声で言い、イサキオスは腰をあげ、座ったままのシュジェールを見下ろして黄金の両目を煌かせた。 「もう一度聞こう。私と一緒にサティルニアに来るつもりは」 「ない」  シュジェールは簡潔にこたえ、続いて古代帝国語、この国で言う神殿語でつけたした。 「君のような恐ろしい男がサティルニアにいるとなれば余計、僕はこの国を離れるつもりはない」  シュジェールは尖った頤をひいて言った。 「ヴァンダール王国はまるまる太った子羊か、熟れきった果実のようなものだ。君はつぶさにこの国の繁栄振りを祖国に報告しただろう。気候はほぼ温暖。肥沃な大地。葡萄の生る丘に黄金の麦畑、美しい石材、建築資材となる森林、風光明媚な湖沼地帯まで」 「まこと、美(うま)し国だ。君のように」  それは違う、と思いながらシュジェールはひそかに笑って続けた。 「かつて勇猛を誇った最強の軍隊はただの農夫に変わり、礼節と忠誠心に優れた貴族は堕落して弱体化している。隙さえあれば奪い取るが良し、君はそう書き送ったのではないか?」 「その通りだ」  シュジェールは、正直な男を見上げてさらに続けた。 「ひとつ、聞いてもいいかな。何故、君のような男がわざわざこの国にやってきたんだ。 この国にたとえれば、第一王位継承者の王子をよそにやるようなものだ」  イサキオスは艶やかに微笑んでこたえた。 「シュジェール、そのこたえがわからないようでは、君は生涯、私には勝てないよ」 「勝つつもりはない。勝ちたいが、君には敵わないさ。君は、古代皇帝のように勇敢な男だ」 「おや、それがこたえだよ」  シュジェールは双眸を瞬かせる。 「私は優れた皇帝を幾人も輩出したルーカス家に生まれ、彼らのようになりたいと願った。だが、すぐに気づく。決定的にその特異な能力が欠けていると……」  それが、以前に聞いた資質であることをシュジェールは思いだした。 「であれば、残る部分、皇帝が皇帝たる所業を真似るだけだ」  イサキオスはそこで、自分の長い豊かな髪を背へと払い上げて息をつく。 「幸いなことに学問も武術も苦もなく覚えることができた。経済、商売のことも理解できる。政治も、もてるすべてであたればどうとでもなる。私が賭けたのは異境でも、自分に皇帝ほどの勇気や支配力があるかどうかだ」  彼は皇帝のように戦場で先頭をきって馬を走らせることができるだろう。圧倒的な力でひとを支配することだって容易なはずだ。  シュジェールがそう思ったのが伝わったのか、男はゆっくりと瞳を伏せた。 「まあ、結果は望んでいた以上のものを得た。信じる神が違えど、ひとは生きるという意味においてはさほど変わらない。魂の永遠を信じ、主の教えを守る敬虔な人物であっても、どこかに脆い部分をもっている。強い信念のある者はそれを逆手にとって動かせばいい」  そんなことくらいこの男にとっては周知のことではなかったのかとシュジェールがあやしむと、イサキオスが微笑んだ。 「私の得た最大の収穫はね、この国の詳細な情報などではない。私自身が自分を律することができないくらい、強く激しい希求があると知ったことだよ」  自嘲と呼ぶには、彼らしい華やかな笑みだ。 「君に、最後の授業をしようか」  イサキオスはそう、古代帝国語で語った。  シュジェールは顔をあげて、将来サティルニアの元首になるに違いない男を見つめた。その、太陽神のように美しい横顔を仰ぐ。 「君がこの国の支配者となるとき、決して神殿と仲違いしてはならない。へつらって、神殿の持つ知恵と知識を掠め取り、その置き土産がわりに金とひとを行き渡らせろ。次からは、彼らが君の手足となる。そのためには、迫害されているゴノール人を影から支援して使うといい」 「イサキオス、何故そんなことを」 「話を最後まで聞きたまえ。今の君にはゴノール人の知り合いもいないだろう。だが、いずれ彼らのほうから近づいてくるはずだ。その時には尊大な態度で厭々願いを引き受けて、たんまりと搾り取れ。彼らは金持ちで貪欲だ。が、金に執着していない。それ以上に欲しいものがあるからだ。金しか、彼らを守れるものがないから貪欲になった」  異国の男の洞察力に舌をまき、シュジェールは語られる言葉を耳にとめる。 「君は、斥候を持つべきだ。それには足の速い、大陸中に根を下ろすゴノール人が最適だ。彼らは主を殺した皇帝の子孫たる私に心を開かないが、君には別だ。サティルニアのもつ情報力より以上に、君は情報戦で素早い勝利をおさめないとならないだろう」 「イサーク」  イサキオスはシュジェールの唇を覆ってから、また言葉をついだ。 「書類の偽造法は羊皮紙とパピルス紙を毎月買って練習すること。特に、古文書を多く買いつけて古びの技は鍛錬するといい。出生や成人、結婚記録書などをいじれば邪魔な貴族を追い落とすこともできる。歴代国王や大神官の祐筆の筆跡や言い回しを習得し、書類を改竄し捏造することで、この国では不可侵と信じられている神殿でさえ動かせるのだ」 「イサキオス」 「まだだ」  イサキオスはシュジェールの唇を塞ぐためだけに唇を合わせ、続ける。 「兵力には手をつけるな。いらぬ軍備など増強すれば、他国は警戒する。君は繊細すぎる。怖がっていることを知られれば、獣は容赦しない。この国は一角獣を従える無垢な乙女のように振る舞うべきだ。侵略されたなら、他国に正義を訴えて救出してもらえ。君の得意な先制攻撃は無効だ。なんなら、都市のひとつやふたつはくれてやればいい。それから戦い出したほうが士気があがる。この国の歴史は先制攻撃を許容しない」  イサキオスの手が、シュジェールの襟のレースを引っ張ってほどいていく。 「あ、イサーク……」 「綺麗に、痕がついている」 「う……」  シュジェールは敏感な首筋と鎖骨を舐め上げられ、口をおさえた。 「君はどこもかしこも弱いんだね」 「嬉しそうな顔をして言うな」 「嬉しいんだよ。私は君がそばにいてくれるだけでこの上もなく幸せだ」 「幸せ?」 「そう。私がこの国で学んだことは、どうやらそのことだったようだね」  イサキオスは慣れた手つきでシュジェールの服を脱がしていく。 「リュシアスはあの邸に置いていく。たまには彼の相手もしてあげておくれ。少々粘着質だから、体力のあるときや興奮して寝つけない夜にはうってつけの相手だよ」  少々か? 本当に少々なのか、とシュジェールは悪態をついた。  リュシアスはあんな涼やかな美貌でありながら、シュジェールの身体を舐めまわし、それから絹のリボンで足と手を寝台に結びつけ、孔雀の羽をつかって秘所をくすぐっては彼が涙を流すのを楽しんでいた。しまいには、シュジェールを後ろ手に戒め、立ち上がったその蕾をしばって到達できないようにしてさんざん首筋と胸の突起を弄りまわした。  イサキオスがやめろと言わなければ、リュシアスはどのくらいそうしていたかわからないくらいだ。 「思い出しているね? リュシアスが喜ぶだろう。私ときたら、まだ授業は途中だというのに、もう君を裸にしてしまったね」  イサキオスが悪戯っぽく笑ってから、何気ない調子で告げた。 「正直に言うと、君さえいなければ私はこの国を征服するつもりでいた」

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