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第8話

 「カット!」  スタッフの声にスタジオの空気が軽くなる。そこここで話し声も聞こえてきて、和やかな雰囲気が漂う。無意識のうちに強張っていた肩の力を抜いた。  「天根くん、すごいでしょ」  「そうですね。まだ荒い部分はありますけど」  そんなの嘘だ。間合いも呼吸の仕方も声の出し方もすべてが完璧。  日常生活を役に全振りしているかいあってか演技に嘘さがなく、あたかも天根の性根が殺人犯なのだと思わせるような自然な演技ができている。  だが母親のように慕っている楓が天根のことを褒めるのはなんだか面白くなくて、きつめの評価をくだした。  「そんな拗ねないの。晶ちゃんも出ればいいのに」  「僕はまだ……」  自分の背後にはずっとキリカンがいる。例えいま俳優に戻ってもまたキリカンに似ていると言われてしまうのではないか。それが怖い。  「天根くんを支えてあげてね」  「どういうことですか?」  「あの子、常に役になりきってるでしょ? そうすると本番までにどうしても疲れが出てしまう。本人は隠してるつもりだろうけど」  「……よくわかりましたね」  「見てればわかるわ。私が何年芸能界にいると思ってるのよ、というのは嘘で共演が多いの。そのたびに態度が違うからそうなのかなって思っただけ」  「やっぱバレますよね」  「本人には直接言わないけどね。でもね、プレゼントをくれるのよ」  「プレゼント……ですか?」  「そう。役によって態度が変わるからそのお詫びみたい。手紙を書いてくれるときもあるわ」  まさかそんなことをしているとは思わなかった。ただでさえ役が抜けずに生活は荒れているというのに、どこに他人に気を遣う余地なんてあるのだろうか。  「それってどういうーー」  「楓さん、そろそろお願いします」  もう少し話したかったがスタッフが楓を呼びに来てしまった。  「今日は早く撮影が終わりそうね。またね、晶ちゃん」  「はい。ありがとうございました」  天根は再度監督と打ち合わせをし、すぐに本番が始まった。問題もなく一発でOKをもらいほっと息を吐く。  次の撮影準備のために天根はヘアメイク担当のスタッフと楽屋へ向かう。マネージャーもつきあうべきだろうかと逡巡していると耳障りな声が聞こえてきた。  「あの人って南雲晶!?」  「なにしに来てんだろ」  「偵察? 後輩いびりとか?」  好奇心の勝った声はざわざわと不協和音を響かせて、嫌な気持ちにさせる。  噂話は嫌いだ。  嘘か本当か確証も得られないのにあれこれと話を大きく膨らませ、それがまるで世間の声かのように堂々と胸を張って世間を渡り歩く。通り過ぎたあとに残るのは傷ついた心だけ。  足が動かない。逃げ出したいのに逃げるのも悔しくて、なにもできないくせに負けず嫌いな性格がほとほと嫌になる。  「マネージャー」  楽屋に戻ったはずの天根に腕を掴まれた。殺人鬼を残した感情の読めない冷たい瞳をしているのに掴まれた箇所が温かく、そのちぐはぐさにどきりとした。  「楽屋」  言葉少なげに告げるとそのままスタジオの出口へと向かう。人が少ない廊下に出ると腕は離され、さっさと歩いてしまう。  ( 助けてくれたのか?)  殺人鬼という仮面が邪魔で、なにを考えているのか読み取れない。  楽屋に着くとすでにヘアメイク担当のスタッフが準備をしていて、天根は鏡の前の椅子に腰かけた。  血糊メイクを施される天根をぼんやり眺める。  メイクスタッフが話しかけても相槌を返すだけで態度が悪い。けれどこの女性スタッフは終始笑顔だ。こんな腹が立つ態度をされているのに聖母のようにやさしいらしい。  ふと楓の言葉が蘇る。天根がプレゼントをくれると。もしかしてこのスタッフは楓のようにお詫びとして受け取っているのかもしれない。だからどんな態度をとられても天根の性格を知っているから腹が立たないのだろう。  天根なりに考えて行動しているのに自分の助言はさぞかし疎ましかっただろう。殺人犯役ではなくても怒っていたのかもしれない。  あまり口出し過ぎないように肝に銘じた。  予定より三十分ほど早く撮影が終わり、私服に着替えた天根はまだ暗い淀んだ瞳をしている。  撮影が終わってもまだ役が抜けないらしい。クランクアップのお祝いにもらった花束が萎れてしまいそうだ。  次の雑誌撮影まで少し時間がある。近場で軽く食べてもいいかもしれないと考えていると天根は一人タクシー乗り場へと向かった。

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