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第9話
「どこへ行くんだ?」
「家帰る」
「え」
確かにスタジオから寮までは車で十分くらいの距離だ。だが時間が空いたといってものんびりするほどの余裕はない。帰ってもすぐスタジオに向かわないと先方を待たせてしまう。
待っていたタクシーに乗り込む天根を追いかけて隣に座る。静止する間もなく、毎回こんな風に振り回されてマネージャーは大変だ。
「どれくらい家にいられる?」
「十分くらいかな」
「わかった」
寮の部屋に入った天根は部屋に閉じこもり、十分きっかりに出てきた。
「お待たせしました。リセットできました!」
夏の日差しのように眩しい笑顔の天根が出てきて面食らう。殺人鬼はもういなく、人懐っこい笑みは犬だったら尻尾を振っていそうだ。
目を白黒させていると天根は罰が悪そうに頬を掻いた。
「撮影が終わっても家に帰らないと役が抜けないんです」
「不便だな」
「もう慣れました」
「なんで家じゃないとリセットできないの?」
「人の目があるとだめなんです」
「それって」
役者として致命的じゃないか。今回は家から帰れる距離の撮影だったが、地方に遠征や海外ロケのときはどうなるのだ。映画撮影になると何ヶ月もホテル暮らしを強いられることもある。
スケジュールを確認すると、いまのところ他作品で撮影が重ならないように組まれていて、どれも近場で撮影できるものばかりだ。
(優秀なマネージャーだな)
役が抜けないことを考慮して、王手を取られないように緻密なスケジュール管理を施されている。
「役を抜けさせるときはなにかしてる?」
「企業秘密です」
天根は細い指を唇に当てて魅惑的な笑顔を浮かべるので、十分前とはあまりにも違う反応に脳の処理が追いつかない。
けれど一つだけわかった。赤羽ソラが素の天根に近いのだ。だから普段はソラとして装って「天
根尚志」という人物像を作り上げている。
どうやら天根は人の目を極端に気にしすぎてしまう節があるらしい。仕事上仕方がないが、役のスイッチをどこでも切り替えられるようにならないとこのままで頭打ちだ。
(人の目を気にしないってどうすれば)
晶も周りを気にしてしまう性格なので解決策がわからない。簡単にわかるならこんなに苦労はしないだろう。
タクシーに乗り込み、雑誌撮影スタジオに向かう間も頭を悩ませていた。
こちらの心配をよそに天根は運転手と他愛もない話をしていて、時折楽しそうな笑い声がしている。一般人にも愛想がいいから、悪いイメージをもたれないのだな。
話が一段落すると天根は晶に向き直った。
「あの、晶さん……って呼んでもいいですか?」
「別にいいけど」
「やった。ありがとうございます!」
屈託ない笑顔は眩しすぎる。芸能人を見るのには慣れているはずなのに、天根から発せられる光はまるで神が降臨したような気高さがあった。光を放っているわけではないが目を細めてしまう。
「俺、ずっと晶さんのファンだったんです。ファンクラブにも入っていたのですよ」
「珍しい奴だな」
キリカンでブレイクして事務所はすぐにファンクラブを開設した。当時は一万人くらい会員がいたが、休業してからファンクラブ自体も閉鎖されてしまった。
「毎月届くカードが楽しみでした。誕生日月にオルゴールが届いたときは飛び上がりましたね」
「懐かしいな」
「いまも大切に取ってあります」
慈愛の籠った琥珀色の瞳にどきりとする。
まるでいまも好きだと言われているような錯覚がしたからだ。
(しっかりしろよ)
いまは天根のマネージャーだ。邪念を振り払って仕事に集中しないと。
「どうして休業してるんですか?」
的確に痛い部分を突かれ、ぐっと唇を噛み締めた。
「……企業秘密」
「それさっき俺が言ったセリフじゃないですか」
乾いた声で笑い、それ以上追及されなかった。ほっと胸を撫でおろす。
(僕だって叶うなら)
叶うならってなんだよ。いまさら俳優になんて戻れるわけがないだろ。
でもいまここに晶のことを待ってくれている人がいる。それがどれだけ嬉しいことか。
(いやいや、いまはマネージャーに集中!)
そんなことよりも天根の体調のことを考えなくては。
今日はもうドラマ撮影はないが、夜中までスケジュールが詰まっているので適度に休憩を取らせないといいパフォーマンスはできない。
「よかったらこれ食べな」
「もしかしておにぎり?」
「さっき家に戻ったときに作った。なにか腹に入れておかないと辛いだろ」
「ありがとうございます。いただきます」
運転手に食べてもいいいか断りを入れてから、天根は一口食べた。
「すごく美味しいです」
「ふりかけって偉大だよな」
「晶さんの手作りだから美味しいんですよ。まさか手料理が食べられる日がくるとは思わなかったです。俳優になってよかった」
「大袈裟だな」
そう言われると少しばかり照れ臭い。
天根はおにぎりを全部食べ、このあとの雑誌撮影も完璧にこなして初日をつつがなく終えることができた。
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