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第57話
必死で築きあげた地位はほんの些細なことで奈落へと突き落とされる。油断も隙も見せてはいけない。常に万人の視線にさらされ、すべての動き、言動が注目される。
プライベートもない。唯一安らげるのは自宅のみ。
芸能界とはそういう世界だ。
その世界でずっと生きてきた天根には安堵の時間は決して多くない。戦隊シリーズから一気にスターダムに駆け上がったからこそ注目度は桁違いで、同時に不祥事を起こしたら地に落ちるのも速い。
常に気を張っているからこそ役になりきることで安心しているのだろう。
そのせいで神経はすり減り、プライベートも役に飲まれる。それはどれほどの苦痛を伴っているのだろうか。
でもこのままだったら頭打ちだ。
天根尚志という役者はここで終わってしまう。
もう一つ飛び抜けるには役になりきることを捨てる必要がある。
だが話をしたいときに限って天根は連日ドラマ撮影で飛び回り、晶も雑誌の取材や撮影が立て込んでいてすれ違いの日々が続く。
家に帰る時間もバラバラで、作り置きしておいた食事を食べてくれたことで存在を感じることしかできない。
仕事帰りに買い物に寄ろうと途中で乾と別れた。秋を過ぎてようやくマスクをしても蒸れなくなり、変装が苦痛ではない季節になってきた。レストランや高級スーパーが並ぶ通りを冷やかしていると吸い寄せられるように一人の男に視線がいく。
金髪の長身。一目で天根だとわかった。
マネージャーもおらず、一人だ。周りの様子を伺いながらの地下に繋がる階段を降りて行った。
(誰かと待ち合わせ?仕事?)
嫌な予感がして、こっそりとあとをついて行く。
階段を降りるとこじんまりとした看板があった。店内は間接照明のみで暗い。正面の棚にウィスキーやワイン、シャンパンなどのボトルがあることからバーのようだ。
ガラス越しになかを覗くと客はほとんどいない。入ったらバレてしまうのは明白なので外から様子を伺う。
天根は奥のカウンター席に座っていた。普段から酒を飲んでいなかったし、てっきり下戸なのだと思っていたからバーにいるのが不自然に映る。
カウンターにはマスターらしき中年の男となにやら話している。天根はこちらに背を向けているので表情はわからないが、中年男が笑うだけで心がざわざわした。
まるで心臓の裏を触られているような不快感。
(あの男は誰だ)
店内は暗く目を凝らさないとよく見えない。窓ガラスに張りついていると中年男と目が合った。
男は晶の方を指さし、天根に耳打ちをした。なんだその親しげな様子は!
天根が振り返り目が合うと表情が固まっている。まるでここにいるのを見られたくなかったような様子に怒りが湧きあがり扉を開けた。
「いらっしゃい。天根くんの知り合い?」
「はい」
「てか南雲晶さん? テレビで観るよりキレイな顔してるね」
「そりゃどうも」
男は余裕の笑みを浮かべて「なにか飲む?」と聞かれて「ウーロン茶」と答えると一応バーなんだけど、と嫌味を言われたが無視した。
断りもなく隣に座る。
「こういうとこ来るんだな」
「……たまに」
「酒飲んでるところ見たことないけど」
「下戸なので」
「じゃあなんでバーなんかにいるの? あの人に会いに来たの?」
責めたいわけじゃないのに口が勝手に動いてしまう。
世間ではクールでカッコいいと言われている晶だが、恋人が他の男に会いに行っているだけで嫉妬する小さい男なのだ。
「俳優になる前はここで働いてたんです」
「……知らなかった」
「初心に帰るために来るんです」
天根がバーで働いていたとは公式でも言っていなかっただろう。そんな大切な場所に邪な考えをして汚そうとしてしまった。
自分の愚かさが恥ずかしくなり、立ち上がろうとするとそれを制するようにグラスが置かれた。
「お待たせしました。ウーロン茶です」
「もう帰ります」
「せめて一杯飲んでよ」
「でも」
確かに出されたものを残すのは忍びない。グラスを一気に煽り、口を拭った。
「ご馳走様です」
「いい飲みっぷりだね。もう一杯どう?」
「結構です」
今度は立ち上がるとコートの裾を天根が引っ張った。まだここにいて欲しいということだろうか。
神聖な場所を踏み荒らすような真似をして後ろめたさがあったが、天根を残すのも心配なのでもう一度座りなおす。
中年男は目尻の皺を深く刻ませた。
「デビュー前のこと教えてあげようか」
「ぜひ知りたいです」
前のめりに答えると男は顎髭を撫でながら昔を思い出すように遠くを見つめた。
「天根くんはいつも一生懸命に働いてくれて、お客さんにも気に入られていまどき珍しいくらい真面目のいい子でさ」
「いまと変わりませんね」
男の口ぶりから天根のことを息子のように可愛がっていたのがわかる。
「スカウトされたときはすごく嬉しそうに報告してくれたよ」
男は目を細めてグラスを磨いた。
「最初は「大好きな南雲晶に会いに行くんだ!」と言ってたのに戦隊の主演が決まったときから自信なさそうにしてたね」
「そう、ですか」
「でもまさか天根くんがずっと憧れてた南雲さんが恋人になってるなんて思わなかったけど」
「ここここ恋人じゃないです」
「南雲さんは嘘が下手なのによく芸能人をやれてるね」
男は柔和な笑みを浮かべた。どれだけわかりやすいんだ。
「……一度スキャダル出てますけど」
「でもSNSで真っ向から否定したでしょ? すごいなって思ったよ」
「ありがとうございます」
そう言われると嬉しい。SNSは付き合い方さえきちんとすれば自分を広められるチャンスの場でもある。
男と話している間、天根はずっと下を向いており組まれた手は震えていた。
「今日は帰ります」
「またいつでも来てね」
天根の腕を引っ張って店を出た。
部屋に着き、片付けをしている間も天根はぼんやりと虚空を見つめている。
心をどこか置き去りにしてきてしまったようだ。
「仕事は?」
「今日はもう終わりで明日早朝からです。すいません、連絡も返せなくて」
「そんなこと訊いてるんじゃねぇよ。なにかあったのか?」
「……別にいつも通りです」
「じゃあ疲れたよな。風呂にでも入ってこいよ。飯作っておくから」
「なんでそうなんですか!」
天根の叫び声に肩が跳ねた。顔を手で覆い、指の隙間から見える目は血走っている。
「本当に俺のこと好きなですか?」
「好きじゃなかったら付き合わない」
「でもソラじゃなかったら俺のこと好きにならなかったよね?」
「そんなこと」
「絶対ないなんて言い切れるの?」
咄嗟に言葉が出てこない。
ソラは天真爛漫のムードメーカー。誰にでも愛されるキャラクターで、さわやかな笑顔が天根によく似合い、惹かれていたのも事実だ。
「もういいです。しばらく出ていきます」
「天根、待って」
自分の静止を振り払い、荷物をまとめると天根は出て行ってしまった。
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