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野獣の名前

ジャンティーの心配をよそに、野獣がある部屋の前でピタリと止まったかと思うと、そこのドアを開けて、ジャンティーに促してきた。 ジャンティーが言われたとおりにその部屋へ入っていくと、そこは、これまで見た部屋のどれよりも広くて装飾豊かな部屋だった。 「ジャンティー、それを開けてみろ」 野獣が、隅に置かれた大きな衣装箪笥を指差す。 「…はい」 ジャンティーは衣装箪笥に近づいていくと、繊細な彫刻が施された観音開きの扉を恐る恐る開いた。 そこにはなんと、色とりどりの錦や絹でできた服がぎっしりと並べられていた。 さらに野獣は、テーブルの上に置いてある大きな宝石箱を開けるように促してきた。 言われるままに宝石箱のフタを開けてみると、中にはジャンティーが見たこともないような豪華な宝飾品が、綺麗に並び入れられていた。 ルビーにサファイア、エメラルドにダイヤモンド、トパーズにアメジスト。 指輪に腕輪にネックレスにイヤリング。 それらの大小さまざまな宝飾品が、キラキラとまばゆいばかりの輝きを放つ。 「ここにある服も宝石も、みんなお前のものだ。好きに使っていいんだよ」   まるで、これから嫁いでくる花嫁のために用意されたプレゼントのようだと、ジャンティーは思った。 さらに、どうしたことだろうか。 自分の胸に、かすかな安心感が芽生えていることに気がついた。 ──もしこの野獣がぼくを取って食べようなんて考えているなら、とっくの昔にそうしてるはずだ そうでなければ、こんなものを寄越してくれるわけがない。 「ここでは、お前が主人なんだ。何でも自由に使うといい。お前に仕える召し使いも大勢用意しておいた。だから、望みがあれば何なりと言ってくれ」 野獣が優しく説き伏せるように話す。 そのせいか、さっきまで大きかった野獣への恐怖心が徐々に小さくなっていった。 「でも、ご主人さま…」 「さっきも言っただろう。わたしを「ご主人さま」なんて呼ぶんじゃない」 戸惑うジャンティーの言葉を、野獣が遮る。 「で、では…なんとお呼びすればよろしいのでしょうか?」 「そうだな、わたしの名前はウォルターというんだ。だから、名前で読んでおくれ」 「かしこまりました。では、ウォルター様とお呼びしますね。それで、ウォルター様。ぼくはここで何をすればよろしいのでしょうか?ぼくはてっきり、ここで家事や庭仕事の奉公をするものと思っておりました」 「ただ、ここにいてくれるだけでいいんだ」 「え…」 予想外の言葉に、ジャンティーは小さく声を漏らした。 「ただ生きて、ここにいてくれるだけでいいんだ。たとえば、その宝石箱に入った宝石を身につけて、その衣装箪笥の中にある服を着て、鏡にその姿を写すだけでもいい。そうだ、さっき書斎に案内しただろう?」 「ええ…」 それなら覚えている。 広い部屋いっぱいに背の高い本棚が所狭しと並べられていて、そこに何千何万冊という本がぎっしり入っていた部屋だ。 「そこにある本を読んで、一日過ごすだけというのもいい」 相変わらず、野獣の言っていることは理解できない。 ジャンティーはまたしても困惑するばかりだったし、野獣があまりに優しいから、かえって気味の悪さすら感じた。 しかし、それを口に出すことなど、ジャンティーにはできなかった。 下手なことを口にして野獣の機嫌を損ねたりしたら、何をされるかわからない。 まして、父親と妹たちの命がかかっているともなれば、なおさら躊躇いが生まれる。 「わたしはときどき、ここを訪ねてくる。そのときに、わたしと食事をしたりお茶を飲んだりしてくれるか?」 「それは、べつに構いませんが…」 はて、自分は野獣のお茶や食事の相手をするために、ここに来ることになったのだろうか。 疑問は残るが、それだけならさほど難しいことではなさそうなので、ジャンティーは快く了承した。 「ときどき、黙ってここにいるだけのときもある。とくに何もしない。それも構わないか?」 「ええ、構いません」 「そして日に一度だけ、わたしはお前にある質問をする」 「……質問、ですか?」 「それにお前がどんな答えを出すかは、お前の自由だ。わたしはもう失礼するよ、今日はゆっくり休みなさい」 そう言って、また轟くような地響きを残して野獣は立ち去ってしまった。 野獣の真の目的はいったい何なのだろう? 野獣がさきほど言った「質問」とはいったいどんなものなのだろう? あれこれ気になって、ジャンティーは豪華な室内の真ん中、ひとり呆然と立ち尽くしていた。  ───────────────────── それから、ジャンティーの城内での不思議な生活が始まった。 これではまるで、執行猶予を言い渡されている死刑囚みたいだとジャンティーは思う。 いつなんどき、野獣は自分や家族の命を脅かすかわからない。 ジャンティーたちの運命は結局、あの得体の知れない野獣の思うままなのだ。 ここではジャンティーこそが主人だなんて野獣は言っていたけれど、これの意図は未だに理解できない。 野獣はあんなことを言って、自分をからかっているのだろうか、からかわれ役をさせるためにわざわざこの城内に呼び寄せたのだろうか、とジャンティーは疑念を抱いた。  ───────────────────── 城での生活は、不思議の国にでもいるような気分だった。 3度の食事の時間になれば、目に見えない手がジャンティーのためにその都度ちがうメニューの、見るも豪華な料理を用意してくれる。 グラスを持ち上げれば、目に見えない誰かが飲みたいと思うものを注いでくれる。 席につけば、目に見えない誰かがジャンティーの前にナプキンを広げてくれる。 さらに、目に見えない誰かがジャンティーのために優美な音楽の演奏までしてくれる。 食事と食事の合間にも、ジャンティーが空腹を感じたりすると、目に見えない手がお茶とお菓子をいつでも用意してくれた。 朝に目覚めたときも、夜にベッドに入るときも、目に見えない手がジャンティーの着替えを手伝ってくれた。  ──────────────────── 出される食事もお菓子もお茶も、いままで味わったことがないほどに美味しかった。 日々奏でられる音楽は聞いたことがないほどに耳触りがよく、野獣が用意してくれた絹の寝巻きは、いままでに着ていたどの寝巻きよりも着心地がよかった。

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