6 / 10
野獣について
そして日に一度、野獣はあのゴォーッという地鳴りのような音とともに、ジャンティーの部屋にやってきた。
ここでの生活はある程度慣れたのだけれど、この音にはどうにも慣れない。
野獣の到来を予感すると、どうしても一瞬、体がこわばってしまうのだ。
それから野獣は、ジャンティーと食事をしたりお茶を飲んだりして過ごした。
ときどき、食事しているジャンティーを眺めているだけのときもあった。
それが終わると、互いに向かい合って座り、あたりさわりの無い話をする。
美術、音楽、絵画、演劇、文学。
野獣はありとあらゆる分野の知識に秀でていた。
いまは貧しい身の上ではあるが、かつて優雅な時代を送ったことのあるジャンティーは、それらの話に十分についていくことができた。
裕福な商人だったシャルルは、当時としては高い知識と教養を兼ね備えていたし、かつて住んでいた屋敷には珍しい革表紙の書物がいくつもあった。
シャルルの趣味で、壁にはいつも東洋渡りの錦糸織りのタペストリーや水墨画が飾られていた。
幼いころには、亡き母に本を読み聞かせてもらい、月に何度かは演劇を見に劇場に連れて行ってもらった。
野獣の話は、地に足ついた高い教養を感じさせた。
この野獣はいったい、どこでどのように育ったのだろうか。
この野獣の父親と母親はどんな人物なのだろうか。
兄弟姉妹はいるのだろうか。
彼らもまた、同じような野獣なのだろうか。
野獣と会話していく中で、ジャンティーはつぎつぎに疑問が沸いて出てきた。
「かわいいジャンティー。いつになれば、わたしを男として受け入れて見てくれる?いつになれば、わたしの妻になってくれるんだ?」
しばらく会話を交わした後、野獣は必ずそう聞いてくる。
これが、野獣の言った質問の内容であった。
これはジャンティーにとって、とても心苦しい質問である。
「答えは変わりません、ウォルター様。ぼくは、自分にウソをつくことはできません。「いいえ」としか、ぼくには答えられないのです」
こんな答えを出すのは、もう何度目かわからない。
何度聞かれても、ジャンティーはそう答えるよりほかないのだ。
しかし、何度同じ答えを返しても、野獣は決して荒々しい手を使ってジャンティーを自分のものにしようとはしなかった。
手に触れることもしない。
ジャンティーの答えを聞き終わると、ただ「そうか」とだけ言って、悪いことでも言ってしまったかのような顔をして、またあの轟音を立てて去っていく。
野獣のそんな姿を見て、ジャンティーは少しばかり胸が痛んだ。
それでもジャンティーには、自分があの野獣の妻になるだなんて、とても考えられない。
自分にウソをつくことはできない。
ジャンティーにだって、心で思い描く恋はあるし、夢見る人もいる。
そもそも自分は男なのだ。
野暮ったくて骨っぽい体つきの、凡庸な顔つきと体つきをした男だ。
なんだって野獣は自分を妻になんて考えるのだろうか。
どうせ妻にするなら、アヴァールやリュゼみたいなかわいらしい女の子が良いのではないか。
そう思った瞬間、ある心配が心をよぎった。
──みんな大丈夫かな?アヴァールとリュゼはちゃんと生活できてるのかな?お父さまはどうしてるんだろう?
ジャンティーはふと、家族のことが気になった。
けれど、ここには野獣がいる以上、無断で出て行くことは難しそうだ。
家族の元へ帰ることを許してくれるかどうか、ジャンティーにはまだ確信が持てなかった。
最悪の場合、怒り出して家族全員の命を手にかけるかもしれない。
それを考えると、自分はまだここに残り続けたほうがいいだろうとジャンティーは判断した。
────────────────────
「わたしを醜いと思うだろう?」
ある日、ジャンティーの部屋にやってきた野獣が、そんなことを聞いてきた。
「ぼくは自分にウソはつけません。たしかに、その通りです。でも、あなたの瞳はとても美しくて、とても哀しそうだと思います」
ジャンティーは戸惑ったが、同時に野獣の瞳の奥にある哀愁に満ちた翳りを見逃さなかった。
ジャンティーは、この野獣より醜い人たちを今までに何度も見たことがある。
他人を憎んだり嫉妬したり騙したり、陥れようとしたりする、醜い人。
その人たちの目は、このうえもなく醜かった。
これこそ、この野獣そのもののように。
「かわいそうなウォルター様」
ジャンティーは野獣に対して、そんなふうに思った。
この人だって、好き好んでこんなに醜く生まれたわけではないだろうに。
「そうだな、お前からしてみれば、わたしはそう見えるのかもしれない。しかしジャンティー、お前はそんなわたしに、一筋の光を残してくれた」
野獣が大きな口を開いて、ジャンティーに笑いかけてきた。
「わたしは明日もこの部屋に来る。そして、同じ質問をする。お前が「はい」とうなずいてくれるその日まで。無理にわたしを愛しているなんて言わなくていい。しかし、せめてわたしを見捨てたりしないでくれ。お前がここにいてくれるだけで、わたしは満足だから」
そう言って野獣は立ち去っていき、ジャンティーは孤独の中に取り残される。
この孤独が恐ろしく耐えがたくて、いっそ思い切って「はい」とうなずいてしまおうかと考えてしまうことがある。
しかし、自分にも野獣にもウソはつけない。
そんなウソは、自分も野獣も幸せにはしないだろう。
自分が孤独なら、野獣はもっと孤独なのだ。
──孤独と孤独を寄せ合って、お互いに傷を舐め合うような真似だけはしないでおこう。それが一番よくない気がするから……
孤独がせまってくると、やはり思い出すのは家族のことだ。
──お父さまはどうしてるんだろう?アヴァールとリュゼは?
シャルルは鎮痛薬を飲むのを忘れていないだろうか。
毎朝仕事に向かうときに、ハンカチを忘れてはいないだろうか。
アヴァールとリュゼが作った料理は、シャルルの口に合うだろうか。
アヴァールとリュゼは家の中をいつも清潔に保っているだろうか。
畑をちゃんと見ていてくれているだろうか。
シャルルは年老いて、かなり白髪が増えてきた。
どんなに自分のことを案じてくれていることだろう。
──なんとかしてお父さまに、ぼくが元気でいることを教えるすべはないのかな…
ともだちにシェアしよう!