9 / 10
シャルルの危機
「それでも国が平和そのものであれば、なんとか事は済んでいるんだ。しかし、王侯貴族が出入りする宮廷は、人々の野心や嫉妬、羨望や狂気が常に渦巻いている。見かけはとても美しいが、その内面はドブ川みたいにドロドロした地獄そのものだ」
そばで話を聞いていたジャンティーはふと、人間だった頃の野獣の姿を想像した。
野獣ではなく、ウォルターというある王族のひとりだった頃の野獣を。
「あるとき、以前からあった貴族同士の派閥争いがピークに達して、クーデターが起きた。わたしたちの国は、ある貴族の一派に奪われた。父上も母上も幼い私も捕らえられた……」
予想もしていなかった野獣の身の上話に、ジャンティーはただただ呆然として、いつになく饒舌な野獣の口元を見つめていた。
「わたしの目の前で、父上も母上も、それまで忠実にそばにいてくれた家臣たちも、つぎつぎに処刑されていった。その人たちの悲鳴や鮮血を、幼いわたしはこの目で見て、この目で聞くことになった」
まだ幼い少年の目の前で、両親が殺される。
考えるのも恐ろしい情景に、ジャンティーは身震いした。
「恐怖とショックとで、わたしは気が狂いそうになった。その恐怖とショックのなかで、わたしは震えながら神にひたすら祈った。どうぞわたしを人間以外の生き物に変えてください。もう2度とこんな恐ろしいものを見ないで済むようにしてください。わたしをこの世から消してくださいと……」
野獣はふと立ち上がると、火かき棒を手に取って暖炉に新しい薪をくべた。
その姿は、胸に沸き起こってくる高揚や、そのときに感じた恐怖を、そうすることで抑えているかのようだった。
「そのまま、わたしの意識は途絶えた。そうして気がついたときには……」
野獣は火かき棒を元の位置に戻ると、もといたソファに座り直した。
「こんな姿になっていたんだ」
「なんということ…」
あまりにも恐ろしく凄惨な話に、ジャンティーは言葉が出なかった。
「やはり信じられないだろうね。こんな話は」
「いいえ、とんでもございません。けれど、なんとも不思議な話だなと思います」
ジャンティーは思ったままを述べた。
人間が野獣に変わるなんてこと、にわかには信じがたいが、この野獣がそんなウソをつく理由が見当たらない。
「そうだな。お前の言う通り、とても不思議な話だ。実を言うと、わたしたちを捕らえて迫害した貴族連中もその手下も、わたしの姿が変わったと同時に消えてしまったのだ。彼らがどこにいったのか、わたしには未だにわからない」
野獣が考え込むように、俯いた。
「ともかく、わたしを取り囲んでいたすべてのものが死んだのだ。ただ残されたのはこの城と、わたしにかけられた魔法だけだった」
野獣が顔を上げると、自然とジャンティーと目が合った。
野獣の赤い瞳が暖炉の炎に照らされて、ルビーのようにキラキラ輝く。
「その日から、ウォルター様はずっとお一人で、このお城で暮らしていらっしゃるのですか?」
ジャンティーが聞くと、気のせいかもしれないが、野獣の瞳がより一層キラキラ輝いた気がした。
「そうだ。長い間ずっと、ここでひとりで暮らしている……」
ジャンティーがそれにどう答えようか考えているうち、野獣が口ぶりを変えて、次のようなことを言ってきた。
「そうだ、ジャンティー。あの鏡をお前の部屋に運ばせておこう。これからは、お前はいつでも家族の姿を見たいときに見ることができる。そうしたほうがいいだろう。家族のことが心配になったら、鏡を見るといい」
野獣はそう言い残して立ち上がると、部屋を出て行った。
─────────────────────
それから数日後のことだった。
ジャンティーは、何の気なしに野獣が部屋に置いてくれた鏡の覆いを取り外した。
先日見たときには、家族全員なんとか元気でやっているようだが、やはり様子が気になった。
老いて面倒をまともに見てくれる者がいないシャルルのことが、特に心配だった。
ジャンティーのその心配は的中した。
苦しむシャルルの姿が鏡に映し出されたのだ。
シャルルは熱にうなされながら、「ジャンティー…」とうわごとのように息子の名前を呼んでいる。
こんなときでも、父親が気にかけるのは自分なのかとジャンティーは胸が痛んだ。
シャルルはベッドの上で汗だくになり、身をよじりながら苦しみ続けている、
「……ああ、どうしよう、お父さま!お父さまが……」
ジャンティーは鏡に寄りかかるようにして、その場に膝をついた。
─────────────────────
それからしばらく経つと、野獣が部屋を訪れた。
ジャンティーは、それを待っていたかのように、彼に駆け寄った。
それに対し、野獣は眉一つ動かさないまま、黙ったままでジャンティーを見おろした。
「……ウォルター様、父が病気になったのです。ぼくの名前を呼んでいます。ぼくは、ぼくはいったいどうしたら……」
ほんのり日焼けしたジャンティーの頬に、涙が伝う。
それを見た野獣の顔に、憐憫のようなものがかすかに浮かんだ。
「ウォルター様、どうかお願いです。父の命に関わることなのです」
突然、ジャンティーは野獣の前にひざまずいた。
「どうした?」
答えをわかった上で、野獣はあえて聞いてみた。
「家族のもとへ帰らせてください。ほんの数日でいいのです。父の看病をさせて欲しいのです。このままでは、父は死んでしまいます」
「ジャンティー…」
「ここに誓います。数日後には必ずや戻って参ります。絶対に約束をやぶったりなどしませんから、どうかご慈悲を…」
野獣はうろたえてジャンティーに手を差し伸べると、なんとか立ち上がらせた。
「そんなふうに泣かないでおくれ。そんなことをされてしまうと、わたしはもうどうしたらいいかわからなくなる」
野獣は悲しげに顔を曇らせた。
「わかった。お前の願いを叶えてやる。1週間だけ、家族のもとに帰るのを許してやる。しかし、1週間経ったら必ずここに戻ってくること。約束できるかい?」
喜びのあまり、ジャンティーの頬にパッと赤みがさした。
「ああ、ウォルター様。ありがとうございます。その約束、必ず守ります。1週間経ったら、ここに戻ってきます」
ジャンティーは、野獣に飛びつかんばかりに喜んだ。
ともだちにシェアしよう!