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シャルルの危機

「それでも国が平和そのものであれば、なんとか事は済んでいるんだ。しかし、王侯貴族が出入りする宮廷は、人々の野心や嫉妬、羨望や狂気が常に渦巻いている。見かけはとても美しいが、その内面はドブ川みたいにドロドロした地獄そのものだ」 そばで話を聞いていたジャンティーはふと、人間だった頃の野獣の姿を想像した。 野獣ではなく、ウォルターというある王族のひとりだった頃の野獣を。 「あるとき、以前からあった貴族同士の派閥争いがピークに達して、クーデターが起きた。わたしたちの国は、ある貴族の一派に奪われた。父上も母上も幼い私も捕らえられた……」 予想もしていなかった野獣の身の上話に、ジャンティーはただただ呆然として、いつになく饒舌な野獣の口元を見つめていた。 「わたしの目の前で、父上も母上も、それまで忠実にそばにいてくれた家臣たちも、つぎつぎに処刑されていった。その人たちの悲鳴や鮮血を、幼いわたしはこの目で見て、この目で聞くことになった」 まだ幼い少年の目の前で、両親が殺される。 考えるのも恐ろしい情景に、ジャンティーは身震いした。 「恐怖とショックとで、わたしは気が狂いそうになった。その恐怖とショックのなかで、わたしは震えながら神にひたすら祈った。どうぞわたしを人間以外の生き物に変えてください。もう2度とこんな恐ろしいものを見ないで済むようにしてください。わたしをこの世から消してくださいと……」 野獣はふと立ち上がると、火かき棒を手に取って暖炉に新しい薪をくべた。 その姿は、胸に沸き起こってくる高揚や、そのときに感じた恐怖を、そうすることで抑えているかのようだった。 「そのまま、わたしの意識は途絶えた。そうして気がついたときには……」 野獣は火かき棒を元の位置に戻ると、もといたソファに座り直した。 「こんな姿になっていたんだ」 「なんということ…」 あまりにも恐ろしく凄惨な話に、ジャンティーは言葉が出なかった。 「やはり信じられないだろうね。こんな話は」 「いいえ、とんでもございません。けれど、なんとも不思議な話だなと思います」 ジャンティーは思ったままを述べた。 人間が野獣に変わるなんてこと、にわかには信じがたいが、この野獣がそんなウソをつく理由が見当たらない。 「そうだな。お前の言う通り、とても不思議な話だ。実を言うと、わたしたちを捕らえて迫害した貴族連中もその手下も、わたしの姿が変わったと同時に消えてしまったのだ。彼らがどこにいったのか、わたしには未だにわからない」 野獣が考え込むように、俯いた。 「ともかく、わたしを取り囲んでいたすべてのものが死んだのだ。ただ残されたのはこの城と、わたしにかけられた魔法だけだった」 野獣が顔を上げると、自然とジャンティーと目が合った。 野獣の赤い瞳が暖炉の炎に照らされて、ルビーのようにキラキラ輝く。 「その日から、ウォルター様はずっとお一人で、このお城で暮らしていらっしゃるのですか?」 ジャンティーが聞くと、気のせいかもしれないが、野獣の瞳がより一層キラキラ輝いた気がした。 「そうだ。長い間ずっと、ここでひとりで暮らしている……」 ジャンティーがそれにどう答えようか考えているうち、野獣が口ぶりを変えて、次のようなことを言ってきた。 「そうだ、ジャンティー。あの鏡をお前の部屋に運ばせておこう。これからは、お前はいつでも家族の姿を見たいときに見ることができる。そうしたほうがいいだろう。家族のことが心配になったら、鏡を見るといい」 野獣はそう言い残して立ち上がると、部屋を出て行った。  ───────────────────── それから数日後のことだった。 ジャンティーは、何の気なしに野獣が部屋に置いてくれた鏡の覆いを取り外した。 先日見たときには、家族全員なんとか元気でやっているようだが、やはり様子が気になった。 老いて面倒をまともに見てくれる者がいないシャルルのことが、特に心配だった。 ジャンティーのその心配は的中した。 苦しむシャルルの姿が鏡に映し出されたのだ。 シャルルは熱にうなされながら、「ジャンティー…」とうわごとのように息子の名前を呼んでいる。 こんなときでも、父親が気にかけるのは自分なのかとジャンティーは胸が痛んだ。 シャルルはベッドの上で汗だくになり、身をよじりながら苦しみ続けている、 「……ああ、どうしよう、お父さま!お父さまが……」 ジャンティーは鏡に寄りかかるようにして、その場に膝をついた。  ───────────────────── それからしばらく経つと、野獣が部屋を訪れた。 ジャンティーは、それを待っていたかのように、彼に駆け寄った。 それに対し、野獣は眉一つ動かさないまま、黙ったままでジャンティーを見おろした。 「……ウォルター様、父が病気になったのです。ぼくの名前を呼んでいます。ぼくは、ぼくはいったいどうしたら……」 ほんのり日焼けしたジャンティーの頬に、涙が伝う。 それを見た野獣の顔に、憐憫のようなものがかすかに浮かんだ。 「ウォルター様、どうかお願いです。父の命に関わることなのです」 突然、ジャンティーは野獣の前にひざまずいた。 「どうした?」 答えをわかった上で、野獣はあえて聞いてみた。 「家族のもとへ帰らせてください。ほんの数日でいいのです。父の看病をさせて欲しいのです。このままでは、父は死んでしまいます」 「ジャンティー…」 「ここに誓います。数日後には必ずや戻って参ります。絶対に約束をやぶったりなどしませんから、どうかご慈悲を…」 野獣はうろたえてジャンティーに手を差し伸べると、なんとか立ち上がらせた。 「そんなふうに泣かないでおくれ。そんなことをされてしまうと、わたしはもうどうしたらいいかわからなくなる」 野獣は悲しげに顔を曇らせた。 「わかった。お前の願いを叶えてやる。1週間だけ、家族のもとに帰るのを許してやる。しかし、1週間経ったら必ずここに戻ってくること。約束できるかい?」 喜びのあまり、ジャンティーの頬にパッと赤みがさした。 「ああ、ウォルター様。ありがとうございます。その約束、必ず守ります。1週間経ったら、ここに戻ってきます」 ジャンティーは、野獣に飛びつかんばかりに喜んだ。

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