143 / 146

34

* *  二人が一線を越えたのは、初めてウイがトワのマンションを訪れた日だった。  その日、トワ、ユエ、ソウのスタジオでのセット撮影が午前中からあった。うまく終われば午後二〜三時頃に終わる。終わったらラインで連絡をする手筈になっていた。  ウイの撮影はなく自宅でトワの連絡を待っていた。  BLACK ALICEでの仕事用のグループラインでは連絡を取り合ったことがある。本当に仕事上のことだけで、主にソウからの連絡に返信するだけだった。  個人宛はまだなく、それを待っているだけで、彼氏の連絡を待っている女子みたいにそわそわしていた。  午後四時を過ぎようとした頃。  そわそわしすぎて疲れ果てたウイはベッドでゴロゴロしていた。  通知音が鳴る。  通知音は朝から何度も鳴っていたが待ち人ではなかった。  ガバっと起き上がりスマホをガシッと掴む。しかしそこで一旦深呼吸。 (また違うかもしれないし……撮影遅れてるとか……それに……もしかしたら、気が変わった可能性も……)  ネガティブな発想しか浮かんでこない。  スマホを開く。 『もうすぐ終わるから』 『ここに来い』  地図が送られてくる。 『そこまで迎えに行く』   トワが住むマンションのある最寄り駅に一番近いコンビニ。  そこが彼の示した待ち合わせ場所だ。  五分袖の厚手のTシャツに黒のデニムのフレアパンツ。赤いラウンド型のフレームの眼鏡をし、カーキ色のキャップにブルーのグラデーションカラーの髪を全部詰め込む。ウイにしては地味な服装だ。  しかし、その綺麗な顔立ちは隠しようもなく、さっきからチラチラと店内の客、スタッフに視線を投げかけられている。 (まさか、BLACK ALICEのウイだとは気づかれないとは思うけど……)  棚を物色しながらそんなことを考えていると、突然後ろから腕を取られ飛び上がりそうなくらい驚く。そして、その姿を見てさらに驚く。  ひょろっと背の高い、上下がブルーデニムで黒いヘルメットを被り、入口付近に置いてある買い物カゴを持った、どことなく不審者めいた男。  ウイは大きく口を開けた。 「ト……っ」  男はカゴを持ったほうの手でウイの口を塞ぎ、耳元で早口で囁いた。 「大声出そうとするな、馬鹿」 「いてっ……す、すみませんぬー」  カゴがゴツゴツと身体に当たり痛いなーと思いながら、小声で謝る。 「あんた、めちゃくちゃ目立ってるぞ」 「え? そう?」  まったく気づかなかったウイ。そう言われてから再度、トワの姿を上から下まで眺め、 「おまえもな」  と反撃。トワは「あん?」と意味分からないとでもいいたげな声を発した。 「それより、腹へった」  腕を掴まれたまま、おにぎりやお惣菜のコーナーへと移動する。 「あんたも何か入れたら」 「あ、うん」 (そういえば、今日朝から何も食べてないかも)  そわそわしすぎてそれ以外のことに気がまわらなかった。腹に手を当ててみても腹が空いているような気はしない。さっきも飲み物ぐらいは買おうかと思っていたほどだ。  ウイはおにぎりとサンドウィッチを一つずつ選んで、トワが持っているカゴの中に入れた。  トワのバイクの後ろに乗せてもらい、十分弱。徒歩だと二、三十分くらいだろうか。高いマンションやビルが建ち並ぶ街中に彼の住むマンションはあった。  正面から見ると、隣合った建物にぎゅうぎゅうと押しつぶされているような印象のあるマンションだ。おそらく奥行きがあるのだろう。  彼の自宅はそこの九階にあった。  家主が鍵を開け中に入っていく後ろを、さっきから物珍しげにあちこちに視線を巡らせているウイがついていく。 「おじゃましまー」と言いかけて、トワの「ただいま」と被った。 「え?」  ウイはそのことに驚いた。後ろから目の前の背中に向かって小声で話す。 「ね、誰かいるの?」 (え? 家族? 彼女? ひょっとして、奥さんとかー?!)  答えたのはトワではなかった。  トワに走り寄ってきたはいいが、ウイに気づいて躊躇している真っ白な猫だ。 「にゃあー!」  威嚇しているような鳴き声。 「あ、クリス!」  ウイが大声を発したのでクリスはビュンっと走り去っていく。 「……もしかして、いつもクリスに向かって『ただいま』って」  笑いを噛み殺しているウイに、トワはぶすったれた顔を向ける。 「悪いか?」 「や、意外で……」 (でも……クリスをユエに見立てて話しかけているとしたら……)  少しもやっとするのは仕方がない。  しかし、コンビニで買い物カゴを持っていたことといい、猫に話しかけているところといい、今日はトワの意外な一面を見て面白い――いや、嬉しい気持ちになる。  

ともだちにシェアしよう!