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第8話

 気がつくと病院の白い天井を眺めていた。 「……科の……先生。至急三階の……に、おいでください」  とぎれとぎれに院内放送が聞こえる。消毒薬の匂い。ふうわりと壁が揺れたと思ったのはカーテンだった。  傍らにはパート事務員の三田村(みたむら)さんが椅子に座って雑誌を読んでいた。 「あらら。気がついた? 熱は下がったかしら」  細長い腕を伸ばして、ごく自然にあぐりの額に掌を当てた。こちらもひんやり冷たい掌である。  掛布団の上に出したあぐりの左手には包帯が巻かれている。腕には点滴の針が刺さっている。着ているのは病院の診察衣だった。 「まだ少し熱があるみたいね」  母親じみた仕草で三田村さんはあぐりの額の髪を撫でている。 「お客様から、あぐりくんが熱で倒れたから病院に運ぶって電話があったのよ。主任がトラックを引き継いで。まだ配送して回ってるみたいよ」  窓からは午後の日差しが差し込んでいる。あのトラックに積まれた荷物は午前中配送のはずだった。人員に空きがなければ管理職の江口主任が配達に行くのも珍しくはないが、まさか自分が熱で倒れるとは思ってもみなかった。 「親切なお客様ね。ここまでしてくれるなんて。後でお礼に行かなきゃね」 「うん……」 「野良猫のひっかき傷から黴菌が入ったみたいよ。猫ひっかき病って病気もあるんですって。あぐりくんのはただの炎症だって。この程度で済んでよかったって先生もおっしゃってたわよ」  炎症は〝圓生(えんしょう)〟と変換される代々の落語マニアである。  そして先生は〝田上真生(たがみまお)〟と変換されるあぐりである。  後で知ったが主治医は別人だった。 「ここ……どこ?」 「本城総合病院」 「家には電話しておいたから。お母さんかしら? 後で来てくれるって」  おそらく叔母ちゃんだろう。喉が痛いので、ただ頷くだけだった。  そこに、ばたばたと廊下から人が入って来る足音がした。「あっちゃん?」と室内に入るなり声をかけてカーテンを開けたのは、浦安に住む次女のまゆか姉ちゃんだった。 「何なの、あっちゃん。みんなもう集まってるのに」  と非難がましく言う。  ちょうどケアマネージャーさんが来て家族会議が始まったところだと言う。三田村さんはまゆか姉ちゃんに挨拶して帰って行った。 「よかったら見る? 今月号よ」  と置いて行ったのは猫雑誌である。猫にひっかかれて倒れた身で、そんなもの読みたくもなかった。  あぐりは病院に一泊して翌朝の診察を経て退院した。久しぶりにぐっすり眠った気がする。病院の朝食も意外においしく完食した。診察に現れた女医が眩いような美女だったのも(ゲイだけど)何やらお得な気分だった。  まゆか姉ちゃんが持って来てくれた服を着て、会社の制服は手提げ袋に入れた。熱も大分下がったので、一人で退院手続きをするに差し支えなかった。だが家に辿り着くにはまだ身体がしんどかった。  病院の玄関を出たきり呆然と突っ立っていると、目の前にシルバーメタリックのランドローバーが停車した。外車のくせに右ハンドルである。助手席のドアが開いた。 「乗って」  と運転席にいるのは田上真生だった。  あぐりはまた何も考えずに座高の高い車に乗った。 「刈谷(かりや)から退院するって連絡もらったから。家どこ?」 「真柴川元(ましばかわもと)三丁目……大吉運送で出る」  カーナビを指差したが、 「大吉運送なら知ってる」  と田上はすかさず車を出した。なめらかな発信だった。  落ち着いたエンジン音もいい。視界の広いランドローバーの助手席で何の脈絡もなく、いつかこの車を運転してみたいと思うのだった。  そして、なるほど田上真生があのボロアパートに住んでいるのは金がないからではなく、引っ越す時間がないからなのだと納得したりする。今も時間がないらしく、田上はあぐりを家の前で降ろすと「じゃあ」と、実にあっさり帰って行った。  車中で話したのは、昨日あぐりが倒れてから本城総合病院に入院させた顛末だけだった。  田上はあぐりが身に着けている社用スマホで足軽運送に連絡すると、友人である刈谷医師に連絡してランドローバーであぐりを搬送した。田上の勤務先は産婦人科病院だから、ばつが悪かろうと慮ったらしい。  その場に置きっ放しだったトラックを江口主任が引き継いだというのは昨日三田村さんに聞いた。  田上のてきぱきとした話に、まだ微熱でぼんやりしているあぐりは「へえ」「はあ」と合いの手を入れるだけだった。ちなみに刈谷医師とはあの眩い美女である。田上と並べば見事なベストカップルだろう。  車が走り去ってみると家の中からは例によって大音声で落語が響いている。  今朝は「厩火事(うまやかじ)」のようだった。髪結いの亭主が妻に大切にしていた皿を割られるが、皿より妻の身を案じる。感激する妻に亭主が言ったのは、 「おまえに怪我でもされてみねえ。明日っから遊んで酒が飲めねえ」  あぐりは何となく右手で左手の包帯を撫でたりする。  玄関を入って二階の自室に向かっているところに、 「あら、あっちゃん。もう退院して来たの? 迎えに行こうと思ったのに」  と叔母ちゃんに声をかけられた。 「うん」と頷き部屋に入ると、手提げ袋保を投げ出してそのままベッドにもぐり込んだ。  自分の匂いを妙に懐かしく思う。今さっきまで聞いていた田上真生の低く腹に響くような声を思い出す。あの低音はベッドでどんな風に聞こえるだろう。後頭部にツンツンと寝ぐせがついた硬い髪にも触れてみたい。  命の恩人に対して何やらひどく不謹慎なことを考えている。構うか。どうせゴールドバンブーの愛用者だ。  そしてまたとろとろと眠りに落ちていた。

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