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第9話

   3  あぐりは退院後も二日間寝込んで仕事を休んだ。その間、婆ちゃんはにわかに正気に戻り、やれお粥だ葛根湯だと二階に来てはまめまめしく介護してくれた。  お陰で叔母ちゃんは休むことなくシフト通りに仕事に行った。365日二十四時間営業しているコールセンターでパート勤務をしているのだ。 「あっちゃんずっと病気でいれば? お婆ちゃんが元気になるから」  などと無茶を言う。  とはいえ面倒を見る人が現れれば、面倒を見られる人ではなくなる。真理かも知れない。  あの午後、あぐりが参加できなかった介護認定調査で婆ちゃんは要介護1になったらしい。まだ正式に認定通知は来ていないが。  家族会議では婆ちゃんを老人ホームに入れる方針が決まり、何か所か候補も絞り込まれていた。今年中には入居させたいとのことだった。  兄の(たかし)はこの家や土地に関しても、パラグアイの父と連絡を取り合っているようだった。  婆ちゃんの先行きが決まったら、家を取り壊してマンションにする計画だという。 「崇さんはマンションには私たちの住む部屋も用意してくれるんですってよ。でもねえ……そりゃこの広さに私たち三人だけが住んでるなんて不経済だけど。勝手に横浜に行っちゃった崇さんや、パラグアイに飛んでった兄さんに言われてもねえ」  と香奈(かな)叔母ちゃんがぼやくのも道理である。  たとえば、あのぬかるみの多い駐車場に砂利を敷くように手配したのも横浜住まいの兄である。  大吉運送の元社員で今や便利屋になっている富樫(とがし)のおっちゃんが兄の命を受けて飛んで来て、作業をしてくれた。  婆ちゃんが兄に愚痴ったのがきっかけとはいえ、あの砂利に足をとられて転びそうになるのはこの家に暮らすあぐり達なのだ。どうも何か奇妙な気がする。  三人の兄姉と一人のいとこの下で末っ子として育ったあぐりは家のことなど何も聞かされて来なかった。自分から積極的に訊くこともしないので、土地の権利だの税金だの難しいことは何もわからない。  現状この家の収入は隣の月極駐車場や若干の不動産収入によるもので(思いついたようにパラグアイからの入金もあるらしいが)それらの管理は兄の会社が請け負っている。  月々の生活費は叔母ちゃんが兄の会社経由で受け取っているらしい。それが如何ほどかも知らぬまま、あぐりはただ宅配会社で働いては収入の半分を家に入れている。  叔母ちゃんがコールセンターでパートをしているのも収入のためなのか、気晴らしのためなのかもわからない。  考えてもみれば自分は単なる与太郎(落語では愚かしい者を指す)である。  大体自分は何故いつまでもこの家に留まっているのか。  高卒後、引っ越し会社に就職した際、寮に入る手もあった。けれど、それは、やはり…… 「ゴールドバンブーだよなあ」  布団の中で寝返りをうって、左手で手枕しかけて痛みに飛び上がる。腫れたひっかき傷はまだ治りきっていない。右手の腕枕に変える。  思春期を迎えて明らかに自分が異性より同性が好きと知った時、先々についてあれこれ悩んだ。  今でさえ少数派なのに大学などに行けばもっと少数派になり周囲に合わせるのに苦労するのではないか?  同級生女子の誰が可愛いの、おっぱいが大きいの、あそこの形はどんなんか、太腿が、胸の谷間が……そんなことどうでもいいけど、人生の重大事のような顔をして騒がねばならない。  だからこそ進学は諦めたのに(単に勉強が嫌いだったせいもあるが)就職して男子寮などに入ればもっと厳しいことになる。四六時中ノンケの仮面を被っているのはつら過ぎる。実家の自室は必要不可欠だった。  白状すればネットでゲイ専門アダルトグッズの店〝ゴールドバンブー〟を食い入るように見つめていたのはあぐり自身である。注文こそしなかったが涎を垂らさんばかりにして同性愛者関連のグッズや情報を漁っていた。  出会い系サイトでセフレや彼氏を見つけるのも自室での楽しみだった。  いずれ大吉運送は引っ越し会社に発展するという兄の野望は果たされず、あぐりは宅配会社に転職した。こちらにも社員寮はあったが、やはり実家に留まった。  社内不倫でセフレができたのはラッキーだったのかアンラッキーだったのかわからない。

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