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第10話

 足軽運送真柴本城営業所は、真柴駅と本城駅のほぼ中間地点にある。線路沿いの雑木林や田畑を切り開いた広大な駐車場に倉庫兼事務所を併設しただけの殺風景な場所である。  車や自転車がなければ通えない。  近所にはコンビニエンスストアと弁当屋が一軒ずつあるだけなのだ。だから、あぐりは毎日婆ちゃん手製の弁当を持参するわけだが。  週半ば、いつもより早めに家を出たあぐりは婆ちゃんの弁当は断り(ゆで卵八個のショックは大きい)コンビニでおにぎりを買い込んで出勤した。 「ご迷惑をおかけしてすみませんでした。今日からフツーに仕事します」  事務所に入ってタイムカードを押すと、まだ江口主任しかいなかった。 「大変だったなあ。猫に引っ掻かれた傷から黴菌が入ったそうだね」  主任は怖いもののようにあぐりの左手を見つめている。包帯は婆ちゃんが毎朝巻き直してくれるから真っ白である。 「僕もその傷に触ったけど……違う病気じゃないだろうね」  とアルコールチェッカーを手にして近づいて来る。  触ったどころか舐め回したくせに。 「違う病気って?」 「HIVとか……」  ふいに辺りに音がしなくなった。  主任は照れ笑いのように歪んだ笑みを浮かべている。  あぐりは何故だか小刻みに震え始めた手でアルコールチェッカーをひったくると、強く息を吹きかけた。  ドライバーは出勤するとタイムカードを押してアルコールチェックをするのが決まりである。  あの朝もそうだった。主任はあぐりを抱擁せんばかりにしてアルコールチェッカーを口元に差し出した。そして耳に舐めるような口づけをしていたのだ。フツーあの時点で相手の体調不良に気がつかないか?  単なる客の田上真生は触れもしないで気がついたのに。  それが今になって〝違う病気〟って何なんだ?  HIVだと?  ようやく震える手が怒りを表していると気づいた時、 「あらら。あぐりくん。もう大丈夫なの?」  三田村さんや森林コンビがどやどやと出勤して来た。主任はとっくに自分の席に就いていた。  首にタオルをかけた先輩ドライバーが、あぐりの肩に手をかけた。バイト学生にあぐりと共に〝襟首タオル組〟と呼ばれている先輩である。  欠勤のあぐりに代わって配送をしてくれたのだが、昨日の荷がまだ回り切れずに残っているという。 「篠崎くんが復帰したなら頼んでいいかな」 「もちろんです! ご迷惑をおかけしました」  コンビニ袋を持ったまま逃げるように事務所を出る。今日はのんびり休憩室で昼食をとる暇はないだろう。あったとしても主任とはもう顔を合わせたくない。車内で食べるつもりだった。  背後では、みんなが料理の話をしている。 「今年はお寿司がいいなあ。手巻き寿司なんかどお?」 「俺は中華! 餃子やシュウマイを食べたいな」 「いや、おでんだよ。ぐつぐつ!」   と口々に言っているのは、料理のリクエストである。  そういえば、そろそろ主任の誕生日が近い。江口主任は料理が趣味で毎年自宅に部下を招いてご馳走している。この際バースデーケーキを持参するのが社員の役目である。  昨年の誕生パーティーにテラスでこっそり誘われたのが不倫関係の始まりだった。妻がいる家の中でよくも誘ったものである。  ステアリングは重かった。今日の荷物だけでなく昨日の残りが積み込まれているからである。今日は田上真生に届ける物はあるだろうか。などと考えている。  ランドローバーの車内でLINEは交換したから、すぐにお礼は送っておいた。だが菓子折りの一つも持って直接お礼に行くべきだろう。  そう思うだけで頬がにやにや緩むのは何故なんだ? 

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