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第28話

 生臭い舌で口の中を捏ね繰り回されるのも我慢して、這えば立て立てば歩めの親心とばかりに手を動かし続ける。 「口で……口でやってくれ」  と主任は異臭のする髪を鷲掴みにして頭を下げようとする。  あぐりは主任の物を手放さない。もはやそれが口淫を遮る最後の砦であるかのように握ってはしごき立てる。  と、脛を蹴られた。  膝が落ちる。  ロッカー室に敷き詰められた簀の子が乾いた音をたてる。  主任は遮二無二それをあぐりの口に突っ込んだ。  食い千切ってやろうか。  思った瞬間、口中に放たれた。  吐き出さなかったのは公徳心からだった。みんなが使うロッカー室をこんなもので汚すわけにはいかない。  正しく躾けられた末っ子のお婆ちゃん子は、飲み込むしかなかった。 「好きだな……おまえも……」  はあはあと嬉しそうな喘ぎ声が上から降って来る。  自分の性欲を相手の責任にする男。この種類の人間はゲイだけなのか。ノンケにもいるのか…………どうでもいい。  あぐりは脱ぎ捨てた制服や衣服も抱いてロッカー室を飛び出した。主任は特にあぐりを追いかけては来なかった。服を抱えた左手の甲に野良猫に引っ掻かれた傷が白く残っていた。  本城駅裏の「焙煎珈琲 黑河」はまだ営業していた。  あぐりは一人で店に入るとカウンター席に着いた。メニューを開いてもずらりと並んだコーヒーの種類に、どれを選べばいいのか見当もつかない。  呆然としていると、カウンターの中の店主らしき男が、 「こちらが先日召し上がった物です」  とメニューのひとつを示した。  白いワイシャツに黒いベストを着た男だった。真生と来たことを覚えているらしい。  あの時は真生が注文してくれたのだ。 「今日はこちらを試してみませんか。夜のような濃い味のコーヒーです」  黙って頷いた。  髪が濡れそぼっていることには特に言及されなかった。  会社を飛び出して駐車場の水道で頭から水を被り、反吐が出るまで口を濯いだ。  水に濡れる度に髪の異臭が際立つ。  襟首タオルはこういう時に役に立つ。身体は拭けたが、やはり髪は乾かなかった。  中古のホンダ車内で着替えをして、家に向かった。けれどとてもまっすぐ帰る気にはなれなかった。夜の街を当てもなく流して結局コインパーキングに車を入れると、本城駅ビルの二階コンコースに出て見た。今夜はチラシ配りの先輩はいなかった。  暗闇に見上げる駅ビルは二十一階建てである。  見上げて……何気に考える。  これだけの高さから飛び降りれば絶対に死ねるだろうな。    いや別に飛び降りたりしないけど……。  駅ビル内はどのテナントも既に閉店していた。シャッターの下りたビルを抜けて線路を越える。駅裏歓楽街の更に奥、真柴本城市の新宿二丁目に足を踏み入れ、この珈琲店に来たのだった。  カウンターに置かれたコーヒーカップは益子焼である。あぐりはその名前は知らないが、土臭いカップだと思う。  その中にある漆黒の飲み物は禍々しさを消し去る苦味を湛えていた。

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